世界農業遺産(GIAHS)とは? 伝統的農業の多様性を次世代に引き継いだ事例

2011年6月に日本で初めて認定された「世界農業遺産」。それまでアジアを中心とした発展途上国のみが認定の対象だったが、日本が認定されたことで、先進国にも世界農業遺産の要件に見合う農業が存在し得ると世界中が認識を改めることとなった。

そもそもこのプロジェクトは、発展途上国の農業発展に寄与しようという目的で始められたもの。そのため、日本をはじめとした欧州などの先進国においては、広く知られているとはまだまだ言い難い。

今回は、この世界農業遺産のメリットや課題について解説する。

▲世界農業遺産に登録されている中国・ハニ族の棚田 © FAO/Min Qingwen

「世界農業遺産」とは

世界農業遺産とは、国際連合食料農業機関(FAO)が2002年に開始したプロジェクト名である。英語名は「Globally Important Agricultural Heritage Systems」で、頭文字を取って「GIAHS」(ジアス)と略されている。

このプロジェクトは、社会や環境に適応しながら何世代にもわたって形作られてきた伝統的な農法や、生物多様性の守られた土地利用のシステム、それに関わることで育まれた文化や風景などを保全し、次世代に引き継いでいこうという目的で設立されたものである。

現在、世界農業遺産に認定されているのは、21カ国57地域(2018年12月時点)。そのうち最も多いのが中国の15地域で、日本はそれに次ぐ11地域。韓国4地域、インド、イラン、スペインがそれぞれ3地域、イタリア、タンザニア、モロッコが2地域と続き、そのほか、スリランカ、バングラデシュ、フィリピン、アラブ首長国連邦、ポルトガル、アルジェリア、エジプト、ケニア、チュニジア、メキシコ、チリ、ペルーがそれぞれ1地域となっている。

世界農業遺産の認定は、日本を例にとると次のような過程をたどる。

まず、対象となる当該地域、つまり市町村及び農林漁業者団体などが、所管官庁に申請する。日本において所管を担う官庁は農林水産省だ。同省において書類審査、現地調査、プレゼンなどを経て、認定申請に係る承認を出す。承認を得られると、FAOに申請書を提出。申請を受けたFAOは、当該地域にまつわる書類の審査や現地の調査を実施する。認定は同機関の科学委員会と運営委員会が合同で行い、2年に1回の割合で開催される世界農業遺産国際会議において決定される。

認定基準となるのは下記の5点である。

(1)食料及び生計の保障
申請する農林水産業システムは、地域コミュニティの食料及び生計の保障に貢献するものである。

(2)農業生物多様性
申請する農林水産業システムは、食料及び農業にとって世界的に重要な生物多様性及び遺伝資源が豊富であること。

(3)地域の伝統的な知識システム
地域の伝統的な知識システムが、「地域の貴重で伝統的な知識及び慣習」、「独創的な適応技術」及び「生物相、土地、水等の農林水産業を支える天然資源の管理システム」を維持していること。

(4)文化、価値観及び社会組織
申請する農林水産業システムの関連した文化的アイデンティティ及び風土が、地域に定着し、帰属していること。

(5)ランドスケープ及びシースケープの特徴
人類と環境の相互作用を通じ、長い年月をかけて発展してきたランドスケープ及びシースケープを有すること。

(参考:農林水産省HP「世界農業遺産とは」http://www.maff.go.jp/j/nousin/kantai/giahs_1_1.html)

認定を受けた地域は、その保全を具体的に進めていくための行動計画を策定し、伝統的な農法や生物多様性、あるいはその景観を次世代に、今後も着実に継承していくことが求められるが、法的に拘束されるものではない。

「世界農業遺産」と「世界遺産」との違い

では、世界農業遺産に認められることで、具体的なメリットはあるのだろうか。

実は、伝統的農法を継続あるいは保全するために金銭的な支援を受けられるなどの直接的な利益はない。あるのは、認定を受けたことによって地域にもたらされる栄誉や誇りのみだ。

認定を受けることで農産物のブランド化が可能になったり、観光客を誘致したりといった地域の活性化が期待されるところだが、実情としてはまだそこまでの段階には至っていない。

というのも、まだ世界農業遺産の知名度が低いからだ。

世界農業遺産に類似するものとして「世界(文化)遺産」が挙げられるが、これは認定機関も、国内における所管官庁も違う。

世界遺産は、ユネスコが認定し、国内では文化庁が所管する。対象となる景観を現状のまま保存するという意味合いが強い「不動産」に重きを置く世界遺産に対し、世界農業遺産は、時代の変化に適応しながら将来にわたって進化を続ける農業の「システム」を重視しているという点で、両者は似て非なるものだと言えよう。

認知度においてはるかに高い世界遺産であればまだしも、世界農業遺産はまだまだ人々に知れわたっているとは言えないため、認定されたことによる直接的なメリットがまだ少ない。今後の周知がどのように進むかが、認定によって地域活性化につながるかどうかの鍵を握っている。

世界にはどのような世界農業遺産があるのか

さて、世界ではどのような地域が世界農業遺産に認定されているのかを見ていこう。

例えば、チリ南部に位置する「チロエ諸島」は馬鈴薯の原産地。先住民の手によって、約200種におよぶ馬鈴薯の固有種の生産が行われている。面白いのは、先祖伝来の慣行が、主に女性の口伝によって何世代も伝わっていることだ。こうした農業システムが評価され、世界農業遺産に認定されている。

▲チロエ諸島で採れた馬鈴薯 ©️CET/Carlos Venegas

アフリカにある世界農業遺産は「マサイの牧畜」だ。タンザニアとケニアの2国にまたがる遊牧民であるマサイ・ダバド族は、先住民から伝わる伝統知識を活かした放牧を行なっている。彼らの生活は牛とともにあり、牛の血や乳が主食である。牛を殺して食べるのは、誕生や結婚、葬送の際のみと限定されていて、一般的に牛を含めて野生動物を殺すことが禁じられている。例外が、牛を襲うライオンだ。ライオンのみは殺傷するのを許されている。こうした暮らしを長く営んできたために、彼らの居住する地域には生物多様性が維持されている。

▲ケニアのマサイ族の牧畜 ©️FAO/David Boerma

インドのカシミール地方で世界農業遺産に認定されたのが、「サフラン農業」だ。そもそもカシミール地方は世界でも有数のサフラン産地であるが、その歴史は古く、2500年以上も昔から受け継がれている。ここでは1万7000もの家族が栽培に携わっており、栽培のほか、生産性を高めたり、あるいは直販を行ったりといったことにも積極的に取り組んでいる。

▲カシミール地方のサフラン

日本にある「世界農業遺産」

日本で認定されている世界農業遺産は次の通りである(カッコ内は地域/認定された年)。

・トキと共生する佐渡の里山(新潟県佐渡市/2011)
・能登の里山里海(石川県能登地域/2011)
・静岡の茶草場農法(静岡県掛川周辺地域/2013)
・阿蘇の草原の維持と持続的農業(熊本県阿蘇地域/2013)
・クヌギ林とため池がつなぐ国東半島・宇佐の農林水産循環(大分県国東半島宇佐地域/2013)
・清流長良川の鮎―里川における人と鮎のつながり(岐阜県長良川上中流域/2015)
・みなべ・田辺の梅システム(和歌山県みなべ・田辺地域/2015)
・高千穂郷・椎葉山の山間地農林業複合システム(宮崎県高千穂郷・椎葉山地域/2015)
・持続可能な水田農業を支える「大崎耕土」の伝統的水管理システム(宮城県大崎地域/2017)
・静岡水わさびの伝統栽培―発祥の地が伝える人とわさびの歴史(静岡県わさび栽培地域/2018)
・にし阿波の傾斜地農耕システム(徳島県にし阿波地域/2018)

(参考:農林水産省HP「世界農業遺産認定地域一覧」より
http://www.maff.go.jp/j/nousin/kantai/attach/pdf/giahs_1_1-11.pdf)


このうち、世界農業遺産において画期的な認定となったのが、「トキと共生する佐渡の里山」と「能登の里山里海」だ。これらは国内において初めて世界農業遺産に認定されたものでもある。

それまで世界農業遺産は発展途上国の農業を対象としており、先進国については除外されていた。これは先進国が発展途上国に手を貸すという一方的な考え方に基づいたものだったが、折しも国連では2030年までの「持続可能な開発目標(SDGs)」が議論されており、気候変動や生物多様性などといった地球的な課題を解決するために、どのような国に対しても共通の目標を設定していこうとの機運が高まっていた。

そこで、世界農業遺産においても先進国を巻き込むことで農業のあり方を世界中で考える契機にしようと、対象範囲を改めることとなった。その記念すべき先進国第1号認定となったのが、先述した日本の「トキと共生する佐渡の里山」と「能登の里山里海」であった。

「トキと共生する佐渡の里山」には、かつて北は北海道から南は沖縄まで幅広く生息していたものの、明治以降の乱獲などによって大幅に減少したトキが野生復帰できる生態系が維持されている。トキの餌場となる水田を維持するために、地域に脈々と受け継がれてきた農業システムを導入し、人と自然の共生を目指していることが評価されて認定された。

▲トキのいる里山の風景

一方、「能登の里山里海」には、伝統的な農山漁村の営みが残っているほか、それらと結びついた能登特有の「揚げ浜式」と呼ばれる伝統的な製塩や、奥能登一円の農家で行われている五穀豊穣を祈る農耕儀礼「あえのこと」などの農村文化が継承されており、こうした景観と一体化した農業システムや文化が評価された。

▲揚げ浜式塩田 ©石川県観光連盟

ちなみに、日本国内のみで認定される「日本農業遺産」もあり、こちらは農林水産省が認定している。

世界農業遺産の展望に欠かせない日本農業の存在

近年、日本の農業は衰退産業のひとつであるといった声が絶えない。少子高齢化や働き方、あるいは文化に対しての考え方の変化などにより、生産者が減少の一途を辿っていることが、その要因のひとつである。

ところが、日本は世界に冠たる工業国である一方、豊かな自然に囲まれ、昔ながらの農業が営まれていたり、手付かずの景観が残されていたりする、世界でも珍しい国のひとつであることもまた事実である。

発展途上国においては、国民に広く食料を行き渡らせることが最優先であり、先進国が主体的に取り組んでいるような持続可能な開発を進めることが後回しにならざるを得ないケースは少なくない。

日本は、その両輪をうまく回すことのできる先進国のひとつであり、今後、世界農業遺産の認定を目指す発展途上国や先進国のお手本となる位置に立っているとも言える。

これら世界農業遺産に認定された地域の発展が、ひいては同じ国や類似した環境の国の農業地域の発展につながることは十分にあり得ることだ。今後、さらなる世界農業遺産の周知や展望に、日本が担う役割は決して小さくないといえるだろう。

<参考URL>
農林水産省「世界農業遺産とは」
FAO駐日連絡事務所「世界農業遺産」

<参考図書>
「世界農業遺産 注目される日本の里地里山」武内和彦(祥伝社新書)
「知財ぷりずむ」2017年9月号(経済産業調査会 知的財産情報センター)
「世界の農林水産」AUTUMN 2016(公益社団法人国際農林業協働協会)
「aff」2011年9月号(農林水産省)
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  1. 田牧一郎
    田牧一郎
    日本で15年間コメ作りに従事した後、アメリカに移り、精米事業、自分の名前をブランド化したコメを世界に販売。事業売却後、アメリカのコメ農家となる。同時に、種子会社・精米会社・流通業者に、生産・精米技術コンサルティングとして関わり、企業などの依頼で世界12カ国の良質米生産可能産地を訪問調査。現在は、「田牧ファームスジャパン」を設立し、直接播種やIoTを用いた稲作の実践や研究・開発を行っている。
  2. 福田浩一
    福田浩一
    東京農業大学農学部卒。博士(農業経済学)。大学卒業後、全国農業改良普及支援協会に在籍し、普及情報ネットワークの設計・運営、月刊誌「技術と普及」の編集などを担当(元情報部長)。2011年に株式会社日本農業サポート研究所を創業し、海外のICT利用の実証試験や農産物輸出などに関わった。主にスマート農業の実証試験やコンサルなどに携わっている。 HP:http://www.ijas.co.jp/
  3. 石坂晃
    石坂晃
    1970年生まれ。千葉大学園芸学部卒業後、福岡県の農業職公務員として野菜に関する普及指導活動や果樹に関する品種開発に従事する一方、韓国語を独学で習得(韓国語能力試験6級)。退職後、2024年3月に玄海農財通商合同会社を設立し代表に就任、日本進出を志向する韓国企業・団体のコンサルティングや韓国農業資材の輸入販売を行っている。会社HP:https://genkai-nozai.com/home/個人のブログ:https://sinkankokunogyo.blog/
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    川島礼二郎
    1973年神奈川県生まれ。筑波大学第二学群農林学類卒業。フリーラインスの編集ライターとして、テクノロジーをキーワードに、農業雑誌・自動車雑誌などで執筆・編集活動中。
  5. 堀口泰子
    堀口泰子
    栄養士、食アスリートシニアインストラクター、健康・食育シニアマスター。フィットネスクラブ専属栄養士を経て独立。アスリートの食事指導や栄養サポートの他、離乳食から介護予防まで食を通じて様々な食育活動を行う。料理家としても活動し、レシピ提案、商品開発も担う。食事は楽しく、気負わず継続できる食生活を伝えることを信条とする。スポーツの現場ではジュニアの育成、競技に向き合うための心と体の成長に注力している。HP:https://eiyoushiyakko.jimdofree.com/
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