【農家コラム】 農家の嫁、55歳からの就農。先祖の土地を守るため、有機農業での就農に至るまでの話

「SMART AGRI」をご覧のみなさん、初めまして。

さとうまちこと申します。

現在57歳。夫、長男夫婦、孫、義母との6人家族で、宮城県の南の方に暮らしています。

りんごの専業農家からお米と野菜を作っている兼業農家に嫁いで早30余年。農家の嫁から母になり、そして今は孫を溺愛するおばあちゃんです。



家族みんなで

我が家が所有する農地は田んぼが1町2反、畑が1畝、他にもうめやかき、くり、キウイなども栽培しています。アケビやカリン、ゆずの木もあります。典型的な根っからのお百姓さんですね(今は「百姓」という呼び名は蔑称に当たるらしいですが、わたしは好きでよく使っています。今後もこのエッセイの中でもたびたび出てくるかと思います)。


家族4代、大家族農家


わたしがこの家に嫁いできた当時は夫の祖父母、両親、妹の7人家族。

主に農業を担っていたのは義祖父母で、夫は地方公務員、義父は工務店で大工さんとして、義母は地元の縫製工場のパートで働いていました。わたしは現在は調理員として保育園で給食を作っていますが、当時は普通の会社員でした。

以前はきゅうりをメインに作付けしていたようですが、わたしが嫁いだ時にはきゅうりも他の野菜も、家族で消費するにはちょっと多いかな、というくらいの作付け量だったような気がします。

お米は、農協に出荷するのが50俵、親戚や知り合いに販売する分と自家消費するのとで50俵と、合わせて100俵ほどの収穫量があったと思います。今は減反したりと少し減ってしまいましたが……。

先にも述べましたが、農作業の主導権は義祖父母であっても、農繁期となれば家族総出で田畑に繰り出します。わたしたち夫婦には2人の息子がいて、その子たちも歩き始めた頃には一緒に田んぼに行っていました。

ただ、義祖父母と義両親が農業の主体となっていたので、わたしたちにとってはどうしても「お手伝い」感覚が抜けないままでした。

息子たちと
我が家の田んぼ

家族の変化


時間が経てば人も歳をとります。

義祖父母も徐々に田畑に出向く時間が減っていき、足腰が弱ってきた義祖母が家の中に引きこもってしまったのが2011年頃でしょうか。

そこからあれよあれよという間に認知症になってしまい、自宅介護をしていましたが、3年後の2014年のちょうど田植えも終わり少し落ち着いた頃の5月中旬に亡くなってしまいました。そして、その半年後に義祖父も義祖母の後を追うように静かに息を引き取りました。2人とも90歳でした。

義祖父は義祖母が亡くなる直前の田植えまで、農作業を続けていました。米作りはもちろんですが、野菜作りは名人と言っても過言ではないとわたしは思っています。

特に、義祖父自身がキャベツを好きだったこともありますが、春夏秋冬キャベツを切らしたことがないんじゃないかなと思うくらい、いつも畑にはキャベツがありました。

収穫時期を考えて、その時期に合った品種の苗を仕立てて植え付ける。

すべてを計算して作業していたのだと思います。元気なうちに野菜作りのノウハウを教えてもらっておけばよかったと後悔したのを覚えています。

でも、その時に感じた後悔はまだ小さかったのです。だってまだ義両親がいたから。

定年を迎えた義母は家にいて義祖父母と共に農業をしていましたし、義父も工務店の仕事に行ってはいましたが、仕事量をセーブして農業の方にシフトチェンジしていたのです。

わたしたち夫婦が農業を継ぐなんてことはまだまだ考えられず、相変わらず言われたことをただ「手伝って」いたのでした。義両親もまだ70代前半。会社勤めならとっくに引退していますが、農業従事者の平均年齢から見れば現役バリバリです。

家族でじゃがいも植え


しかし、病気ひとつしたことがなかった義父が、平成という時代が終わり新しい年号に変わるという2019年1月の終わりに、突然脳梗塞に倒れ、1年の闘病生活と1年の老健施設での暮らしの後、コロナ禍で面会もままならない中亡くなってしまいました。

義父が病気になってしまった時には「さすがにこれからは自分たちが頑張らねば」という気持ちになった……かといえば、正直まだ義母が元気でしたので、これからその都度教えてもらって少しずつ覚えていけばいいやと楽観的に考えている自分がいました。

実際、稲作は夫が、野菜栽培は義母が、というふうに役割分担されていて、わたしは家事の合間にちょっと手伝うという形でうまく回っていたような気がします。

しかし悪いことは続くもので、義父が亡くなった年の秋、「ひとめぼれ」の刈り取りが終わり、あと1〜2週間もすれば「つや姫」の刈り取りも始まろうかという時に、なんと夫が草刈作業中に足を切ってしまったのです。

農作業中もスマホを持っている夫は自分で救急車を呼び、その後わたしにも連絡してきました。急いで現場に行くと、膝から太腿にかけて切れておりそれを見た瞬間にいろんなことが頭の中をよぎりました。

(これはもう歩けないかもしれない……)

息子は2人とも結婚していて、長男夫婦は同居、次男夫婦は県北に家を構えていたので、子どもたちの心配はありません。ですが、仕事のこと、農業のこと、夫は介護が必要な体になってしまうのだろうかと、搬送される夫と共に救急車の中で不安で押しつぶされそうでした。

緊急手術後、担当医から告げられたのは「歩けないということはないですが、補助は必要になるかもしれません」とのことでした。元々楽天的な性格のわたしでしたが、この時はかなり落ち込みました。

コロナ禍で見舞いにも行けないので様子がわからずにいたのですが、入院から5日目でようやく車椅子でトイレに行けたと夫から報告があったかと思ったら、その翌々日には退院許可が出たと言われ、リハビリ施設への転院かと思われたのに、なんと自宅に帰ってくるというではありませんか。

車椅子か杖の介護用品レンタルも考えないと、とネットで調べながら長男と夫を迎えに行くと、松葉杖を携えてはいるけれど普通に歩いてる夫。長男と大爆笑してしまいました。

傷は結構深かったのですが、幸い大きな血管や神経に至っていなかったようで正座ができるようになるには時間がかかるらしいですが、日常生活には何の問題もないとのことでした。

「草刈りも足の切り方も上手なんだね」なんて、笑って言えることに感謝です。夫は今も普通に草刈りをしています。


災い転じて福となす


人生には良いことも悪いことも同じくらい起こると言われています。人が老いて亡くなることは当たり前だし、不慮の事故でケガをしたとしても日常に戻れました。

その後、孫が誕生したりと再び平穏な日々を過ごしていた10月のある日。その日は、わたしは公休日で家にいました。

夕飯は何にしようかと悩み始めた午後3時頃に、居間でくりの皮剥きをしていた義母が、お茶を飲んだ後に急に咳き込み出したのです。ただむせただけかなと思いましたが、ちょっと様子がおかしい。立ち上がろうとしても立ち上がれない。

義父のことを思い出したわたしはすぐにかかりつけの内科医院へ連れていきました。診察してもらった時は普通に歩けるようにもなったし、会話もできたのですが、念のためと脳神経外科がある救急病院を紹介していただきそのまま直行。検査の結果、脳梗塞が見つかったのです。

でも、義父の時と違って歩けるししゃべれるし、すぐに良くなるだろうと思っていたんです。

入院して4日ほど経った頃、急に容態が悪化し、専門医のいる仙台の病院へ救急搬送されました。カテーテル治療が行われましたが、詰まってしまった血管は元には戻らず右半身に少しの麻痺と言葉が出にくいという後遺症が残ってしまいました。

認知機能はしっかりしているので、自宅での介護もそれほど大変ではなく、今では保育園から帰って来る孫のお出迎えが日課となっています。

孫とにんじん


「農」を継ぐ、と決めた理由


義祖父母と義父が相次いで亡くなり、夫のケガや義母の脳梗塞の発症。怒涛のような10年間でしたが、不思議と農業を辞めるという選択肢は思い浮かびませんでした。

農業従事者の高齢化や後継者不足で離農する農家が増えてきていると聞きます。わたしたちが住む地域も例外ではありません。肥料や農機具はただではないのです。儲かるどころかやればやるほど赤字になるだけなので、兼業農家ならなおさら農業を続けていく意味がないのです。

家業ですから人件費は度外視。趣味でやっている家庭菜園ならまだしも、普段は会社勤めをしていてなぜ休日に農作業で疲れなければならないのか。

近所にはわたしたちと同年代の人たちもいます。その親世代は未だ現役で農家をしていますが、「息子夫婦に農業を継いでもらいたいとは思ってない」と口をそろえて言います。

もちろん、息子さんたちも農業を継ぐ気はないと言っています。5年経ったらこの辺りの田畑はどうなっているのだろうと不安が頭をもたげます。

ですが、先人たちが守ってきたこの土地をただ荒地にしてしまうのは忍びません。ずっと受け継がれてきた「農」という生業を絶やしてしまうのは残念だと感じてしまうのです。

そしてもうひとつ。わたしたちが農家を続けることを選んだ理由があります。

義母が脳梗塞に倒れたのと時を同じくして、夫が「鬱」を患い3カ月休職することになったのです。残業続きの日々、休日も仕事に行く日が多く心は悲鳴を上げていたのでしょう。

不謹慎ですが、義母の病気を機に夫も少し吹っ切れて、復職する時には現在の役職から降格ということにしていただき、仕事量も調整してもらい心身ともに楽になったようでした。

そして、それまでよりも農業にかけられる時間が少し増えたことで、夫が元気になってきたように感じられたからです。

一時は退職も考えたようでしたが、農家収入だけでは心もとないので、もう少し仕事を頑張ってみると言った夫ですが、もしまた心が病んでしまった時には「一緒にお百姓さんをしよう!」と胸を張って言えるように、わたしも本腰を入れて農業に取り組もうと心に決めたのでした。

息子の田植え
農作業自体が元々嫌いではなかったということも、大きな理由のひとつかもしれません。

土を耕し、種を蒔き、栄養を与え、手入れを怠らずに収穫の時を待つ。

わたしたちが生まれる前から繰り返されてきた農家の仕事です。そのひとつひとつの作業をただただ苦労するだけととらえるか、実りの後の収穫を喜びととらえるかは人それぞれだと思いますが、その体験ができるための農地と農具はすでに目の前にそろっているのです。

少なからず経験もあり、乏しいですが知識もあります。やらない手はないのです!

……と、意気揚々、夫と今後の目標を立てたわけですが、逆にこれまでの中途半端な知識と経験が邪魔をします。

昔からの方法は大切ですし、時代遅れなところはあっても間違ってはいないのです。でも、四六時中農業に向き合うことは外に勤めに出ている身には時間もなく難しいのです。


有機農法で野菜を作ろう


息子の協力を得ることもできますが、やはり主軸となるのは夫とわたしです。大きな機械や力仕事が多い田んぼの作業は夫の担当。野菜畑を大きく耕す時はトラクターで夫にしてもらいますが、普段は管理機でわたしがやっています。

義母が抜けた後も稲作の方はこれまでと同様、夫を中心に家族みんなで協力して作業しています。夫もずっと携わってきた作業なので、水の管理などには苦労しましたが、2023年はなんとか前年と変わらない収量でした。

しかし、野菜は……。

義母が倒れたのが秋だったので、翌年の春野菜からわたしの野菜作りのスタートです。

本を読み、ネットで調べ、作付けから収穫までどうにか辿り着けたものの、とても人様の食卓に並べてもらえるような野菜たちではありませんでした。「家族で食べるだけなのだからいいよね」と、家庭菜園を始めたばかりの初心者のようなセリフで自分を慰めました。

想像以上に難しい。同じことをしているのに毎回出来が違うと言っていた義祖父の言葉を思い出しました。

納屋にはさまざまな農薬や肥料が残っていましたが、ふと思ったのがここにある農薬や肥料は安全なのだろうか? ということ。

化成肥料の影響や残留農薬などいろいろと話題になっているので、家族の食を預かる身としては気になるところです。

わたし自身が調理の仕事もしているので、食材の安全性の大切さも理解しているつもりでしたが、自宅で栽培している野菜なら安心だと、謎の自信があったのです。

調べてみると、在庫している肥料は化成肥料でした。化成肥料は農業資材店やホームセンターなどで手に入るし、作物の生育も早い利点がありますが、使いすぎると土壌にも良くないし人体にもあまり良い影響はないと聞きます。確かに我が家の畑の土は硬くて、何度耕してもフカフカになりません。

夫と相談して、どうせイチから始めるようなものなのだから失敗してもいい! くらいの覚悟で、自分の思うような農業を目指そうと思ったのです。

うちの畑でとれた野菜たち

大きな専業農家さんにはどんなに頑張っても太刀打ちできません。農家です! と胸を張れるほどの知識も経験もなく、農地も設備も中途半端な小さな兼業農家にできることはなんだろう?

調理職に長く携わっているので、食への興味から薬膳や食に関する資格をいくつか取得しました。その過程で改めて考えさせられたのが、「食べたもので体は作られる」ということです。体の健康は心の健康にもつながります。

時間や手間がかかるかもしれない。形のいい綺麗な野菜は作れないかもしれない。でも、小さなお子さんから高齢者まで安心して食べられるお米や野菜を作れるようになることが、わたしの夢になりました。

有機農法で野菜を作ろう。

まずは土壌改良から始めることにしました。

土がカチカチに硬いのは土中の微生物が少ないからなのだと思ったからです。米ぬかや牛糞を入れて微生物の働きを活発にしようと試みているところです。

同時にぼかし肥料作りにも挑戦中。ぬか床のように毎日毎日かき混ぜて、その変化にワクワクしています。

義母の受け売りですが、畑は毎日見に行ってあげないといけないということ。作物を植えていても植えていなくても、朝晩田んぼと畑を見回ります。

わたしが目標としているのは、「お百姓さん」です。

単作での大規模農家ではなく、少ない収量でも多品目を栽培することで、小さな農家でも生き残れるのではないのかと思います。

農閑期には味噌や麹を仕込んだり(藁を編んだりなどは今どきはしないですが)、田畑での農作業以外にも仕事はたくさんあります。

一見無駄と思えることも、別にやらなくても結果は変わらないのでは? ということもありますが、まだまだ農業初心者マークのわたしに判断できるはずがありません。

やらずに後悔するのではなく、失敗から学べる人になりたいと思います。

まずはフカフカの土を目指して、日々畑との対話を楽しみます!


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WRITER LIST

  1. 田牧一郎
    田牧一郎
    日本で15年間コメ作りに従事した後、アメリカに移り、精米事業、自分の名前をブランド化したコメを世界に販売。事業売却後、アメリカのコメ農家となる。同時に、種子会社・精米会社・流通業者に、生産・精米技術コンサルティングとして関わり、企業などの依頼で世界12カ国の良質米生産可能産地を訪問調査。現在は、「田牧ファームスジャパン」を設立し、直接播種やIoTを用いた稲作の実践や研究・開発を行っている。
  2. 福田浩一
    福田浩一
    東京農業大学農学部卒。博士(農業経済学)。大学卒業後、全国農業改良普及支援協会に在籍し、普及情報ネットワークの設計・運営、月刊誌「技術と普及」の編集などを担当(元情報部長)。2011年に株式会社日本農業サポート研究所を創業し、海外のICT利用の実証試験や農産物輸出などに関わった。主にスマート農業の実証試験やコンサルなどに携わっている。 HP:http://www.ijas.co.jp/
  3. 石坂晃
    石坂晃
    1970年生まれ。千葉大学園芸学部卒業後、福岡県の農業職公務員として野菜に関する普及指導活動や果樹に関する品種開発に従事する一方、韓国語を独学で習得(韓国語能力試験6級)。退職後、2024年3月に玄海農財通商合同会社を設立し代表に就任、日本進出を志向する韓国企業・団体のコンサルティングや韓国農業資材の輸入販売を行っている。会社HP:https://genkai-nozai.com/home/個人のブログ:https://sinkankokunogyo.blog/
  4. 川島礼二郎
    川島礼二郎
    1973年神奈川県生まれ。筑波大学第二学群農林学類卒業。フリーラインスの編集ライターとして、テクノロジーをキーワードに、農業雑誌・自動車雑誌などで執筆・編集活動中。
  5. 堀口泰子
    堀口泰子
    栄養士、食アスリートシニアインストラクター、健康・食育シニアマスター。フィットネスクラブ専属栄養士を経て独立。アスリートの食事指導や栄養サポートの他、離乳食から介護予防まで食を通じて様々な食育活動を行う。料理家としても活動し、レシピ提案、商品開発も担う。食事は楽しく、気負わず継続できる食生活を伝えることを信条とする。スポーツの現場ではジュニアの育成、競技に向き合うための心と体の成長に注力している。HP:https://eiyoushiyakko.jimdofree.com/
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