パン屋という職業への内省【コメより小麦の時代へ 第8回】

今回の主役は滋賀県近江八幡市のイカリファームに「ゆめちから」を作ることを依頼した、丸栄製パン(滋賀県長浜市)。

県に働きかけて同品種を含めて県産小麦だけを使ったパンを、学校給食に年2回提供している。突き動かすのは「職業への内省」だ。

なぜ滋賀県でパン屋を営むのか。自らの職業的な存在価値への根源的な問いかけは農家にも向かう。なぜ小麦を作るのか、と。


全量買い取りの向こうにある夢


丸栄製パンの辻井社長
「今年はいきなり銀行に借金しましたわ」

辻井社長は笑いながらこう語り始めた。「借金」の理由は、イカリファームから全量買い取りを約束している「ゆめちから」が、2019年産で過去最高の収量を上げたから。同年産の購入量は220t。作付面積から想定していた数量は150tだった。

「まったく……。確かにどんどん作れといったけど、ここまでになるとは聞いてないで」

そう嘆息しながらも、どこか楽しそうである。

「ゆめちから」は滋賀県の小中学校の学校給食向けのほか、自社の販売用や県内の保育園用にパンとして加工する。3年前からは静岡県の学校給食向けに、パン用の小麦粉を提供する製粉会社に卸している。静岡県については右から左といった感じで、儲けは度外視している。

それは辻井社長も「ゆめちから」によってかねてからの夢が現実となり、さらに膨らもうとしているからである。パン屋の経営者として辻井さんはこの品種をこう評価する。

「名前の通り本当に“夢の力”です。国産小麦で製パンする時に問題とされてきた粘性や弾性といった点がすべてクリアされている。今までの国産品種とはけた違いにすごい品種です」


滋賀県産小麦でパンを作る夢


子どもの頃に見た景色が心に残り、その後の人生を決めることは少なからずある。辻井社長にとってのそれは、梅雨前に田が金色に染まる景色だった。

「子どもながらに『なんじゃこれっ! 』て思ったんです。秋でもないのになんで田が色づくんだと」

しばらくしてからそれは小麦だと知り、やがて大学を卒業して家業であるいまの会社に入ってから思った。「なぜこれでパンが作れないのか」と。

今ならわかる。その時に畑で見たのは「農林61号」だった。ロングセラーという意味なら、この品種はコメの「コシヒカリ」に相当する。品種別の作付面積ランキングでは1959年から1978年まで全国1位を誇り、その後も長きにわたり、北海道を除けば全国の主力品種として君臨した。

しかし、小麦の代名詞ともいえるこの品種は、うどん用である。

当時は小麦は小麦に過ぎず、品種ごとに用途があることを知らなかった。「農林61号」を2t買い込んでパンにしてみた。もちろん「まるで駄目」だった。

その後に強力品種として「ニシノカオリ」が育成されたので、農家に作ってもらって買い取り、同じくパンにしたけれども「農林61号よりはまだましというくらい」。

「ゆめちから」が誕生したのを知ったときにもすぐに動いた。この品種の開発に携わった帯広畜産大学生命・食料科学研究部門の山内宏昭教授(当時は農研機構・北海道農業研究センター)に、全日本パン協同組合連合会のセミナーの席で尋ねた。

「パンにするときに、『ゆめちから』の大失敗と『ミナミノカオリ』の大成功とどっちが上なのか」と。

返事は「『ゆめちから』の大失敗の方が上」だった。

「山内先生が言うんですわ。『製パン適性にどれだけ優れているかは遺伝的なものだから、頑張っても仕方ない。遺伝的に優れた品種を使うべきです』って。だからすぐに『ゆめちから』の種を手配することにしました」

ここで疑問に思う人もいるはずだ。なぜ種子を手配するのか。国産小麦でパンを作るなら、北海道で生産された「ゆめちから」を買い入れればいいではないか、と。

これに関してはすでに述べた通り、辻井さんの夢は「国産小麦のパン」ではなく「滋賀県産小麦のパン」の実現である。では、なぜそこまで県産小麦にこだわるのだろうか。


パンは嗜好品か、食糧か



「パン屋の意地なんですかね。滋賀県でパン屋をやっている意味って何かを考えたんですよ」

そう言って自らの職業の存在価値について語り始めた辻井社長だが、意外なことにもともとパン屋を継ぐ気はなかったそうだ。なぜなら、パンが好きではなかったから。

「なんせ、小さいころから店舗で余ったパンばかり食べさせられてきましたんで」

だから、駒澤大学を卒業した後も渋々ながら家業に入ることになった。この頃はそもそもそパンが食糧として必要なのかという疑問さえ持っていた。コメと違って人の生命を支える食糧ではなく、嗜好品に過ぎないのではないかと感じていたのだ。

「フランスパンって、なんであんなものがいるんやろうなって。一部の人が嗜好品として食べているだけやろって。そう公言していたら、親父から『パン屋がそれを言ったらおしまいだろ』って怒られましたわ」


考え方を変えた東日本大震災


考え方ががらりと変わるきっかけになったのは、東日本大震災だ。

電気が使えず炊飯できない中、食糧としてのパンを求める人たちが大勢いるのを目にした。この時初めて思った。

「食糧のベースとしてのパンも必要なんだな。パンは嗜好品というだけでなくて、命に直接関わるものだったんだな」と。この認識はすぐに自らの職業を問い直すことにつながる。

「ここには田んぼがたくさんあって、周りで小麦を作っているのに、自分はその小麦でパンひとつ作れないじゃないか。偉そうにパン屋といいながら、それで本当にパン屋なんかと」

この問いかけに対する答えはすでに述べた通り、品種の試行錯誤である。県内で生産でき、なおかつ製パン適性が高い品種の模索だ。

本来であれば県を挙げて取り組むような話ではあるものの、辻井さんは独自の資金を持ち出してそれらの検証を重ねた。そしてようやく「ゆめちから」に出会った。

実は辻井さんの父もかつて、「農林61号」でパンを試作したことがあることを後で知った。そのころから数えると、実に20年以上の歳月が流れていた。


孤立する国産小麦


県産小麦でパンを作ることを叶えた辻井さんはいま、どんな夢を描いているのか。

「県内の学校給食で、県産小麦だけを使ったパンを提供する回数を増やすのですか」と問いかけると、「それはこれっぽっちも考えていない」とあっさり。県内よりは近畿地方のほかの府県へ普及したいという。

「滋賀県の小麦が広く認められるほうが大事」と考えるからだ。

滋賀県産の小麦が入り込む余地は十二分にある。近畿地方の各府県の小麦の作付面積(2017年産実績)を見ると、トップは滋賀県の7150ha。続いて兵庫県1850ha、ほかは京都府154ha、奈良県109ha、和歌山県は2ha、大阪はゼロ。滋賀県以外の5府県を合計しても滋賀県の3割に過ぎない。

「滋賀県の農家には、近畿地方の地産地消を担う責務があると思って取り組んだらどうだ、と言いたい。その気があるなら、今のように需要がない品種を作る余裕はないはず。パン用や麺用の強力品種を作るべきですよ」

そのために農家にまず知ってもらいたいのは。小麦に「軟質」と「硬質」があるということ。辻井さんによれば、小麦を作っている農家であってもそれを知っているのはほぼ皆無というから驚く。

「良かったら一度、小麦の農家に質問してみてください。小麦にはどんな種類があるのかって。それから自分が作った小麦がJAから先はどこに流れていくのかって。おそらく誰も答えられないですから」

この言葉から、小麦の生産がサプライチェーンの中でいかに孤立しているかがわかる。


優れた少量より、平均80点の小麦づくりを



もう一つ伝えたいことは、作るなら一定の品質を保つこと。これは野球に例えてこう語った。

「農家によく言うのは、『四番バッター』の小麦だけを作ろうとするなと。コメはそれでもいいんです。単独のブランドで売れるから。でも小麦は10t、20t、30tという単位で粉にするため、全体的に平均点80点になることが求められる。少量でも四番バッター、あとは粗悪、という小麦は要らないんです。

だから発想を切り替えてもらわないと。品評会で特賞を取るのは目的ではないし、むしろ目的を遂行するうえで弊害になるとさえ思っています」

イカリファームは栽培技術に優れ、毎年品質の最低基準を優に越えて来る。しかし、イカリファームだけでは近畿地方に普及するだけの生産量には至らない。

そこでイカリファームに望むのは、出荷組合を組織することだ。周囲の優れた農家を巻き込んで栽培技術の研鑽を図りながら、一定以上の品質の小麦を安定的に生産・供給できる体制を整えてもらうことを期待している。

「『ゆめちから』は素晴らしい品種。その価値を損なわないためには、生産と流通の段階で誰かがハンドリングしないといけないんですよ」

辻井さんのこの言葉で思い出すのは、北海道の山本忠信商店とチホク会の関係だ。両者もまた、生産と流通の関係者が情報の交換や技術の研鑽を図りながら、製パン業者の期待に応える小麦とその粉の生産に励んでいる。

国産小麦の普及に当たってはサプライチェーンの関係者の強固な連携が欠かせないのだ。


丸栄製パン株式会社
https://poco-p.jp/

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WRITER LIST

  1. 田牧一郎
    田牧一郎
    日本で15年間コメ作りに従事した後、アメリカに移り、精米事業、自分の名前をブランド化したコメを世界に販売。事業売却後、アメリカのコメ農家となる。同時に、種子会社・精米会社・流通業者に、生産・精米技術コンサルティングとして関わり、企業などの依頼で世界12カ国の良質米生産可能産地を訪問調査。現在は、「田牧ファームスジャパン」を設立し、直接播種やIoTを用いた稲作の実践や研究・開発を行っている。
  2. 福田浩一
    福田浩一
    東京農業大学農学部卒。博士(農業経済学)。大学卒業後、全国農業改良普及支援協会に在籍し、普及情報ネットワークの設計・運営、月刊誌「技術と普及」の編集などを担当(元情報部長)。2011年に株式会社日本農業サポート研究所を創業し、海外のICT利用の実証試験や農産物輸出などに関わった。主にスマート農業の実証試験やコンサルなどに携わっている。 HP:http://www.ijas.co.jp/
  3. 石坂晃
    石坂晃
    1970年生まれ。千葉大学園芸学部卒業後、九州某県の農業職公務員として野菜に関する普及指導活動や果樹に関する品種開発に従事する一方で、韓国語を独学で習得する(韓国語能力試験6級取得)。2023年に独立し、日本進出を志向する韓国企業・団体のコンサル等を行う一方、自身も韓国農業資材を輸入するビジネスを準備中。HP:https://sinkankokunogyo.blog/
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    川島礼二郎
    1973年神奈川県生まれ。筑波大学第二学群農林学類卒業。フリーラインスの編集ライターとして、テクノロジーをキーワードに、農業雑誌・自動車雑誌などで執筆・編集活動中。
  5. 堀口泰子
    堀口泰子
    栄養士、食アスリートシニアインストラクター、健康・食育シニアマスター。フィットネスクラブ専属栄養士を経て独立。アスリートの食事指導や栄養サポートの他、離乳食から介護予防まで食を通じて様々な食育活動を行う。料理家としても活動し、レシピ提案、商品開発も担う。食事は楽しく、気負わず継続できる食生活を伝えることを信条とする。スポーツの現場ではジュニアの育成、競技に向き合うための心と体の成長に注力している。HP:https://eiyoushiyakko.jimdofree.com/
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