リスクを負うことで築いたヤマチュウ・チホク会・敷島製パンのバリューチェーン【コメより小麦の時代へ 第5回】

※記事初出時、画期的な北海道産超強力小麦のブレンド粉等を用いた自給率向上のための高品質国産小麦の開発」プロジェクトの参画した企業名に当初誤りがありました。筆者よりお詫び申し上げます。

本連載の目的の一つは、国産小麦を基軸にしたフード・バリュー・チェーンを構築するヒントを既存のモデルからつかみとることにある。

集荷業者の山本忠信商店(以下、愛称のヤマチュウ)とチホク会、敷島製パンの関係にも学ぶことは多い。まったく新しい事業を始めるにはリスクは付きものだ。

では、リスクに直面した時にそれを引き受けることができるのか。そこに事業の成否がかかっている。

チホク会がつくった小麦を扱う都内のパン屋(撮影:筆者)

「ゆめちから」試作農家に交付金相当分を負担


「ただ、ただ、使命感ですよね」

ヤマチュウの山本マサヒコ専務は、チホク会の農家に「ゆめちから」を作ってもらった2008年からの2年間をきっぱりとこう振り返る。

この年、ヤマチュウはチホク会に声をかけ、試作してくれる人を募った。ただ、それには一つ大きな障壁があった。

「ゆめちから」は産地品種銘柄に登録されておらず、国の「畑作物の直接支払交付金」の対象外。つまり農家にとってみれば、例年通りに北海道の優良品種(=奨励品種)を作れば手にできる交付金が、「ゆめちから」を栽培すれば、その面積分だけ入ってこないことになる。これでは試作を呼び掛けても徒労に終わりかねない。

そこでヤマチュウは、試作した分だけ交付金に相当する「協力金」を農家に補償することにした。

2年間で支払ったのは総額にしてざっと1600万円。決して少なくない投資をするだけに不安はなかったのかと問うと、山本専務は「後にプロジェクト(注1)のメンバーとなる人たちが、『ゆめちから』を世に出すという仕事に懸けていたからね。うちとしてもやるしかないという気持ちだけだった」と、そう言い切った。

大きな支出となった。しかし、これでデビューしたばかりの「ゆめちから」がほとんど誰にも作られないという事態を避けることができた。

山本専務は「新品種は最初に普及できないと、埋もれてしまうからね。どうしても作ってもらう必要があった」と振り返る。

前回紹介した製粉工場「十勝☆夢mill(十勝夢ミル)」を建てる時にも難事が襲ってきた。建設費10億円のうち半分は補助金で賄うことにしていた。それが民主党政権になってから、行政刷新会議の事業仕分けにひっかかり、補助額は5億円から3億円に引き下げとなってしまったのだ。

それを聞いた山本専務は、山本社長にそれでも計画を続行するか打診した。

山本社長は「勝負する価値はあると思う」と回答した後、「専務はどう思う」と尋ねた。「あると思います」。これで計画を続けることが決まった。

とはいえ不安は残り、山本社長は3カ月ほど眠れない日が続いたという。

注=「画期的な北海道産超強力小麦のブレンド粉等を用いた自給率向上のための高品質国産小麦の開発」プロジェクト。参画したのは北農研、敷島製パン、東洋水産、カネカ、日本製粉に加え、生産側の代表としてヤマチュウ。


敷島製パンの覚悟が「ゆめちから」普及の足掛かりに


「ゆめちから」の普及に当たってリスクを負ったのは、ひとりヤマチュウだけではない。いまでは最大の取引先である敷島製パンも同じである。

2020年1月、両社とチホク会が都内で集まった一席では、こんな話で盛り上がった。

ヤマチュウが難事を乗り越えて製粉工場を造ってから2年目のこと。「ゆめちから」の生産が北海道全体で急激に増え、需要を大幅に超えてしまった。結果、在庫を抱えることになり、1t当たりの評価額は8万円台から3万円台に下がった。評価損だけで2億円を超えたという。

翌年、強い危機感を覚えていた山本社長は、農家に昨年分より増産するのは止めてもらうよう懇願する一方、ある人物にすぐに電話をして会う約束を取り付けた。

敷島製パンで「ゆめちから」によるパン作りの先頭に立っていた、現在は広域営業本部長の根本力氏だ。敷島製パンに出向いた山本社長は根本氏に直談判した。

「『ゆめちから』の生産を今後も続けるために今年1年間だけは、相場より高くなりますが、昨年と同じ価格で買ってくださいませんか。駄目ならば他社と合わせます」

あるいは断られるかもしれない……。そう不安を感じていた山本社長に対し、根本氏の返事は意外なものだった。

「社長がわざわざ来るから、そんな話だと思っていました。承知しました」

「正直、『えっ、そんだけ』と思いましたよ」。根本氏を前に山本社長はそうつぶやくと、感極まったようになった。

この件についてヤマチュウの本社であらためて振り返ってもらうと、山本社長はため息を漏らした後、こう続けた。

「この話をすると、胸が熱くなります。あの時の根本さんの決断が『十勝☆夢mill』を救ってくれたんですから。そして、あの年は『ゆめちから』が北海道に定着するか、それともなくなっていくかの分岐点でした。あの時、敷島製パンが助けてくれなければ、いまの『ゆめちから』の広がりはないです」

この年、北海道の農業界ではまだ「ゆめちから」の可能性が理解されているとは言い難かった。その証拠にJA系統とそれ以外の商系はいずれも集荷しなかったのだ。結局、ヤマチュウだけが「ゆめちから」を扱うことになる。

しかし、集荷量は敷島製パンの需要量を大幅に超えていた。その評価損をヤマチュウが抱えたことは、チホク会でもあまり知られていない。


「ヤマチュウ=ゆめちから」のイメージが定着


山本忠信商店の本社(写真:筆者)
はっきりしているのは、この年を境に風向きが変わったことだ。

「ヤマチュウ=ゆめちから」というイメージがついたのだ。翌年以降、「ゆめちから」に関心を持って作り始めた農家の中で、ヤマチュウに出荷する人が増えていく。チホク会の会員が十勝地方を越えて道内の広範に渡り、300人を超えるまでになったきっかけだ。

「会員が増えたのは政策を伝えたからでもあるよね」

こう振り返るのは山本専務。国産のパン用小麦には十分な需要があり、政策はそれを支える仕組みになっている。

その自給率が3%である以上、その仕組みは長期的に続いていく。ざっとそんな内容のことを周知することで、国産のパン用小麦を作ることが、孤立した取り組みではなく、国家的な枠組みにあることの認識を広めていった。

「互いにリスクを背負いながら、未来を見据えることが大事だね」

ヤマチュウとチホク会の関係は「同志」であると感じる。当然ながらその強固な関係は一夜にしてできたわけではない。

設立した当初は農家にとっては様子見だったようだ。中でも山本社長が思い出すのは、初年度の総会で農家から吐きかけるように投げかけられた次の言葉だ。

「どうせお前ら、俺たちをだまくらかして食っているんだろ」

事前に落ち度があったわけではない。唐突にぶつけられたものだった。

ただ、十勝地方における雑穀商と農家の関係の歴史をたどれば、その気持ちはわからないではなかったという。ヤマチュウが農家と向き合う姿勢は、その歴史に学んだ成果である。

立脚点は、相場で儲ける過去の雑穀商としての反省


十勝の雑穀商について触れる前に、ヤマチュウ初代の山本忠信がこの業界に参入した経緯をたどろう。

忠信は戦後、出征していた満州から引き上げると、大阪・岸和田の実家に戻った。しかし、次男であり「ふたかまどは入らない(=所帯は一つでいい)」(山本社長)という状況だった。

そこで当時実家の商いで一部取り扱っていた雑穀で一旗揚げようと、1952年の食糧管理法改正で雑穀の統制が解除された翌年、現在の北海道音更町に妻子を連れて移住。豆類や蕎麦を扱う雑穀商を開く。

当時、十勝地方には雑穀商は60軒ほどあった。その始まりは明治30年代に遡る。

当時の雑貨屋が、貧しくて現金の持ち合わせがない農家に農業資材だけでなく日常生活品を渡し、その代金の回収で現金の代わりに豆類を集めるようになった。

農家が収量を上げてくれないことには雑穀商も代金の回収ができないことから、山本社長は「当初は良い関係を築いていた。十勝の農業は、雑穀商が農家と寄り添いながら創り上げてきたと言っても過言ではないと考えている」と語る。

それが暗転したきっかけは、1914年から1918年に繰り広げられた第一次世界大戦だ。豆類の値段が5倍にまで高騰し、農家も雑穀商も儲かった。今まで持ったことのないような現金を手にした農家は、雑穀商から農業資材も日常生活品も現金で購入するだけの力を付けた。

そしてそれは、農業資材も日常生活品も買った雑穀商に豆類を売る義務から解放されることを意味した。結果、農家はどの雑穀商に売ればいいかを決めるにあたり、「値段」で判断するようになる。

「そんな世界なので、凶作になると雑穀商は喜ぶ。でも一方で、農家は首を締められているわけですよ、売るものがないから。この時点で両者は完全に相対立する関係になったんだと想像します」

そんな最中、1900年代に入ってから全国で産業組合の設立が広がっていった。

産業組合とは中小農家の保護と救済を目的とし、戦後に誕生する農業協同組合の前身ともいうべき組織である。十勝地方では産業組合ができたころ、農家による豆類の出荷先ごとの割合は雑穀商が8割、産業組合が2割だった。それが先のことを背景にして、わずか5年で3割と7割に逆転する。

こうした雑穀商の歴史がヤマチュウの反面教師となっている。山本社長はしみじみと語る。

「雑穀商はサプライチェーンの中で川上と川下の情報を遮断して、自分だけがそれを握り、相場で儲けようとしたから衰退していった。ヤマチュウは設立時にその歴史を繰り返さないことを肝に銘じたんです」

いったい何のための商売なのか。ヤマチュウにとってそれは、食によって感動を創造することであり、農家と消費者を喜びと信頼で結ぶことである。

そのためには、背負うべきリスクは当然のように背負う。簡単なことではないが、それなくして事業の継続はありえない。

十勝の雑穀の歴史がそれを教えてくれている。


株式会社山本忠信商店(ヤマチュウ)
https://www.yamachu-tokachi.co.jp/

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  1. 福田浩一
    福田浩一
    東京農業大学農学部卒。博士(農業経済学)。大学卒業後、全国農業改良普及支援協会に在籍し、普及情報ネットワークの設計・運営、月刊誌「技術と普及」の編集などを担当(元情報部長)。2011年に株式会社日本農業サポート研究所を創業し、海外のICT利用の実証試験や農産物輸出などに関わった。主にスマート農業の実証試験やコンサルなどに携わっている。 HP:http://www.ijas.co.jp/
  2. さとうまちこ
    さとうまちこ
    宮城県の南の方で小さな兼業農家をしています。りんご農家からお米と野菜を作る農家へ嫁いで30余年。これまで「お手伝い」気分での農業を義母の病気を機に有機農業に挑戦すべく一念発起!調理職に長く携わってきた経験と知識、薬膳アドバイザー・食育インストラクターの資格を活かして安心安全な食材を家族へ、そして消費者様に届けられるよう日々奮闘中です。
  3. 北島芙有子
    北島芙有子
    トマトが大好きなトマト農家。大学時代の農業アルバイトをきっかけに、非農家から新規就農しました。ハウス栽培の夏秋トマトをメインに、季節の野菜を栽培しています。最近はWeb関連の仕事も始め、半農半Xの生活。
  4. 川島礼二郎
    川島礼二郎
    1973年神奈川県生まれ。筑波大学第二学群農林学類卒業。フリーラインスの編集ライターとして、テクノロジーをキーワードに、農業雑誌・自動車雑誌などで執筆・編集活動中。
  5. 柏木智帆
    柏木智帆
    米・食味鑑定士/お米ライター/ごはんソムリエ神奈川新聞の記者を経て、福島県の米農家と結婚。年間400種以上の米を試食しながら「お米の消費アップ」をライフワークに、執筆やイベント、講演活動など、お米の魅力を伝える活動を行っている。また、4歳の娘の食事やお弁当づくりを通して、食育にも目を向けている。プロフィール写真 ©杉山晃造
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