種苗法改正を前にあらためて考えたい「品種の多様性」
2020年1月の通常国会で継続審議とされていた種苗法改正の審議が、11月11日に始まった。改正をめぐる議論で、ずっと気になっていることがある。
それは、ともするとF1種と、固定種や在来種、伝統品種が対立するものであるかのように論じられることだ。実際には、私たちの食生活はさまざまな品種が共存することで成り立っている。
たとえば、わが家のある晩の献立はこうだった。
栗ご飯、枝豆、ほうれんそうのおひたし、白菜と豚ひき肉の中華風炒め。
豚以外の素材ごとの品種を挙げると、こうなる。
産地から送ってもらった西明寺栗は、実の大きさと糖度の高さに改めて驚かされた。雪若丸はもともと好きなコメの品種の一つで、栗ご飯にも合うという発見があった。丹波黒は、実の張り方と味の濃さがふつうの枝豆の比ではない。印象が薄いのがスーパーで買ったはくさいとほうれんそうなのだけれども、いつでも手に入るため、献立を考えるうえで心強い存在だ。
何が言いたいかというと、在来種からF1種まで、それぞれに良さがあるということだ。
異なる親を掛け合わせると、双方の優れた特性を発揮しやすいという植物の性質を利用したもので、一代に限り狙った性質が均一に出る。F1種を作るにあたって、「雄性不稔」という雄しべをつけない個体が、自家受粉の恐れがなく便利なのでよく使われる。
このことが、負のイメージを持つ原因のようだ。
F1種は病気への強さや品質の均一さ、安定した収量など、大量に流通させるためのメリットが多い。スーパーや業務向けの安定供給に、なくてはならない存在だ。買いたい野菜がスーパーに行けばそろう状態を維持するには、もはや欠かせないといえるだろう。
一方で、種の多様性を保つために伝統品種を残そうという動きもある。伝統野菜を積極的に扱う八百屋や種屋が増えている印象だ。
伝統野菜の中でも、50品目ある江戸東京野菜は、復活栽培が進んでいる。その様子は大竹道茂『江戸東京野菜の物語』(平凡社新書、2020年)に詳しい。学校や近隣住民を巻き込んだ活動が多く、地域おこしの手段にもなっている。私はこのうち、江戸時代の新宿で盛んに栽培された内藤とうがらしの収穫後の調製を、手伝ったことがある。
ただし、栽培が途絶えた品種の復活栽培は、口で言うほど簡単ではない。そもそも種が残っていないと、どうしようもないのだ。
栽培が絶えてまだそれほど経っていなければ、ジーンバンク(別稿参照)の貯蔵庫に種が保管されている可能性がある。実際、少なくない江戸東京野菜がジーンバンクの種から栽培を復活させているし、それ以外にも、地域にちなむ伝統品種のジーンバンクからの取り寄せが毎年あるという。だが、成功例はわずかのようだ。
均質に育ちやすいF1に比べると、伝統品種は育ち方にムラがある。品質が安定しなかったり、手間が掛かったり、需要がなかったりと、生産の足を引っ張る要素は少なくない。
たとえばトウガラシなら、主産地の韓国では収穫するときに、房をバサバサとゆすれば実が簡単に取れる新品種が開発されているそうだ。それに対して伝統的な品種だと、まず房を切り取って、調製作業で実のひとつひとつをハサミで切り離すことになる。
農業経営を成り立たせるには、人件費がかかる分、商品にするときに付加価値を足して再生産可能な価格で売らなければならず、簡単なことではない。
在来種の保護に、法整備が必要だと主張する人もいる。在来種の保護自体は素晴らしいことだが、制度を作って予算を投じるべきものなのだろうか。ニーズがなければ、いくら立派な仕組みがあってもどうにもならない。
さまざまな品種があってこそ、私たちの食卓は豊かになる。だから、伝統品種の価値を見直し、食材として取り入れよう。あるいは再生産価格で売るために知恵を絞ろう。
──こうした機運の醸成の方が、法整備より大切ではないだろうか。
それは、ともするとF1種と、固定種や在来種、伝統品種が対立するものであるかのように論じられることだ。実際には、私たちの食生活はさまざまな品種が共存することで成り立っている。
F1種 vs 伝統品種ではない
私たちの日々の食事は、品種の多様性に支えられている。このことは、献立に使った食材の品種を考えるとよくわかる。たとえば、わが家のある晩の献立はこうだった。
栗ご飯、枝豆、ほうれんそうのおひたし、白菜と豚ひき肉の中華風炒め。
豚以外の素材ごとの品種を挙げると、こうなる。
栗ご飯:西明寺栗(丹波栗の系統を引き、秋田県仙北市西木町の旧西明寺村で作られた在来種で固定種)、雪若丸(山形県産の登録品種で固定種)
枝豆:丹波黒(黒大豆の在来種で固定種)
ほうれんそうのおひたし:ほうれんそう(おそらくF1種)
白菜と豚ひき肉の中華風炒め:白菜(おそらくF1種)、バレイショでんぷんの片栗粉(固定種でおそらく一般品種)
2018年に本格デビューした雪若丸のように新しいものもあれば、西明寺栗のように300年以上前に地域に持ち込まれ、大きな実をつけるようになった木を選抜して固定種にしたものもある。枝豆:丹波黒(黒大豆の在来種で固定種)
ほうれんそうのおひたし:ほうれんそう(おそらくF1種)
白菜と豚ひき肉の中華風炒め:白菜(おそらくF1種)、バレイショでんぷんの片栗粉(固定種でおそらく一般品種)
産地から送ってもらった西明寺栗は、実の大きさと糖度の高さに改めて驚かされた。雪若丸はもともと好きなコメの品種の一つで、栗ご飯にも合うという発見があった。丹波黒は、実の張り方と味の濃さがふつうの枝豆の比ではない。印象が薄いのがスーパーで買ったはくさいとほうれんそうなのだけれども、いつでも手に入るため、献立を考えるうえで心強い存在だ。
何が言いたいかというと、在来種からF1種まで、それぞれに良さがあるということだ。
伝統品種の復権も
何世代にもわたって同じ性質の作物ができる固定種と違い、異なる親を掛け合わせて生まれるF1(雑種第一代)は、一部の消費者から目のカタキにされがちだ。異なる親を掛け合わせると、双方の優れた特性を発揮しやすいという植物の性質を利用したもので、一代に限り狙った性質が均一に出る。F1種を作るにあたって、「雄性不稔」という雄しべをつけない個体が、自家受粉の恐れがなく便利なのでよく使われる。
このことが、負のイメージを持つ原因のようだ。
F1種は病気への強さや品質の均一さ、安定した収量など、大量に流通させるためのメリットが多い。スーパーや業務向けの安定供給に、なくてはならない存在だ。買いたい野菜がスーパーに行けばそろう状態を維持するには、もはや欠かせないといえるだろう。
一方で、種の多様性を保つために伝統品種を残そうという動きもある。伝統野菜を積極的に扱う八百屋や種屋が増えている印象だ。
伝統野菜の中でも、50品目ある江戸東京野菜は、復活栽培が進んでいる。その様子は大竹道茂『江戸東京野菜の物語』(平凡社新書、2020年)に詳しい。学校や近隣住民を巻き込んだ活動が多く、地域おこしの手段にもなっている。私はこのうち、江戸時代の新宿で盛んに栽培された内藤とうがらしの収穫後の調製を、手伝ったことがある。
一筋縄でいかない栽培の復活
ただし、栽培が途絶えた品種の復活栽培は、口で言うほど簡単ではない。そもそも種が残っていないと、どうしようもないのだ。
栽培が絶えてまだそれほど経っていなければ、ジーンバンク(別稿参照)の貯蔵庫に種が保管されている可能性がある。実際、少なくない江戸東京野菜がジーンバンクの種から栽培を復活させているし、それ以外にも、地域にちなむ伝統品種のジーンバンクからの取り寄せが毎年あるという。だが、成功例はわずかのようだ。
均質に育ちやすいF1に比べると、伝統品種は育ち方にムラがある。品質が安定しなかったり、手間が掛かったり、需要がなかったりと、生産の足を引っ張る要素は少なくない。
たとえばトウガラシなら、主産地の韓国では収穫するときに、房をバサバサとゆすれば実が簡単に取れる新品種が開発されているそうだ。それに対して伝統的な品種だと、まず房を切り取って、調製作業で実のひとつひとつをハサミで切り離すことになる。
農業経営を成り立たせるには、人件費がかかる分、商品にするときに付加価値を足して再生産可能な価格で売らなければならず、簡単なことではない。
在来種の保護に、法整備が必要だと主張する人もいる。在来種の保護自体は素晴らしいことだが、制度を作って予算を投じるべきものなのだろうか。ニーズがなければ、いくら立派な仕組みがあってもどうにもならない。
さまざまな品種があってこそ、私たちの食卓は豊かになる。だから、伝統品種の価値を見直し、食材として取り入れよう。あるいは再生産価格で売るために知恵を絞ろう。
──こうした機運の醸成の方が、法整備より大切ではないだろうか。
【連載】種苗法改正を考える
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