日本における精密農業、スマート農業の歩みを振り返る 〜北海道大学 野口伸教授(前編)

スマート農業に興味のある方ならば一度は、北海道大学教授の野口伸先生の名前を聞いたことがあるはずだ。農業ロボット研究の第一人者であるだけでなく、内閣府直轄プロジェクト「戦略的イノベーション創造プログラム」(SIP)の農業分野プログラム(第1期)ダイレクターを務めたことに象徴されるように、日本におけるスマート農業推進の先頭に立つリーダーである。

そんな野口先生は、スマート農業を推進することでいったい何を目指しているのだろうか? また、日本農業の20年後はスマート農業でどう変わっているのだろうか?

今回は最新の技術動向ではなく、より俯瞰的な立場からお話しいただいた。

野口伸(のぐち のぼる)
北海道大学 農学部 生物環境工学科

数学と物理好きの少年がロボット農機の研究者になるまで


──そもそも、野口先生が農業分野に携わられたきっかけはなんだったのでしょうか?

野口:私は北海道三笠市で生まれたのですが、父親の仕事の都合で山口県に引っ越しをしまして、そこで高校卒業まで過ごしました。子どもの頃から数学と理科、物理が得意でね。

それで大学進学という時になって、幼少期を過ごした北海道が懐かしくなりまして……北海道大学に進学しました。北大といえば農学部。ということで北大農学部に進学したわけです。あまり大きな声では言えませんが、当時は「将来こんなことをやりたい!」というような、明確な目標を持っていたわけではありませんでした。

大学に入学してからは、大好きな研究に明け暮れました。院生の頃に研究していたのは、アルコールエンジンのトラクターでの利用です。小型ディーゼルエンジン、そのあとトラクタエンジンを、代替燃料の一つであるエタノールを使用してデュアル燃料モードで動作するように変更したのです。具体的には、最適な燃費特性になるようにディーゼル燃料とエタノールの供給量を制御できるマイクロプロセッサシステムを設計・試作しました。この時、制御技術に興味を持って、それが後に生きることになりました。

今ではありえないですが、昼夜や土日もなく、研究ばかりしていました。論文もたくさん書きましたし、企業との共同研究も行いました。そうして1990年には同大で博士課程を修了して博士号を取得。助手として大学教員になって現在に至るわけです。

現在の私の研究室では「ビークルロボティクス」と名付けていますが、農業機械のロボット化に関する研究を始めています。自動追尾機能を有した測量機を使用した耕うんロボットの開発、それにイリノイ大学での海外留学時には、GPSで自分の位置を認識しながら作業するロボットトラクターの開発と、作物の生育状態をリアルタイムで検出できるマルチスペクトル画像を用いたシステムの研究も行いました。これらはどれも、後のスマート農業で活用できる技術です。


粗放的大規模農業から精密農業、そしてスマート農業へ

──野口先生は着々と現在のスマート農業に繋がる研究をしていたわけですが、農業の在り方はその間、どのように変わっていたのでしょうか?

野口:非常に大雑把にまとめれば、世界とくに欧米の農業の歴史は、粗放的大規模農業から精密農業へ、そしてスマート農業へと変遷したと言えます。

産業革命後の農業は、端的に言えば、効率化=大規模化という明確な目標に沿って行われていました。当時は人口が激増していましたから、それまでのやり方では食料供給が追い付かなくなってしまう。それに対する手段として、大規模化、言葉を変えれば農業の工業化という方法が採用されました。農業の大規模化そのものは、決して間違ってはいませんでした。

ただ、農地に負荷をかけすぎた結果、地力の低下や地下水汚染、それに生態系破壊といった、農地のみならず環境にまで悪影響を与えてしまった。また、食の安心・安全が脅かされたのもその頃です。

大量の化学肥料と農薬を農地に投下する手法の限界でした。1960年代には早くも、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が話題になっていますよね。あれは粗放的な大規模農業に対する警鐘と言えるものでした。

それではいけない、何とかしなければ、ということで新たな概念が生み出されました。それが精密農業「Precision Farming」です。日本には2000年代初頭に一般的になった考え方です。

それまでは、大きな畑を均一であるとみなしてできるだけ均一に肥料を入れたり農薬を散布していましたが、精密農業は違います。精密農業とは、農地・農作物の状態をよく観察して、きめ細かく制御して、その毎年の結果を蓄積して最適に営農をしましょう、という手法。農作物の収量と品質の向上を目指すものでした。

──そうなのですか? 私はその頃に農学部に所属していたのですが、当時は精密農業という言葉は聞いたことがありませんでした。

野口:それは、あなたが在籍していた大学の教員が悪いのではなくて、日本農業に精密農業という概念がマッチしていなかったからだと考えられますね。

日本の生産者さんは、海外で粗放的農業を実践していた間も、田畑を細かく管理していた。自分の田畑の状態を、経験知としてしっかり持ち、管理していたのです。自分の経験に基づいた可変施肥なんて、日本の生産者にとっては当たり前のことだったのですから。

また、精密農業が盛んに持ち上げられ始めた当時から、GPSの活用や航空写真が始まっていましたが、未だ道具としての性能が十分ではなかった。だから「農地の情報を取得して精緻に管理しましょう」という精密農業の概念は、日本では一般には普及しにくかったのだと考えています。

ただし研究者はその頃から、圃場内の機械作業情報管理ソフトや、圃場ごとの生産状況を可視化するソフトを開発するなど、現在のスマート農業に繋がる研究開発を地道に行っていたんですよ。


スマート農業は精密農業の進化形

──そんな状況を変えたのが、「スマート農業」という概念だったわけですね。

野口
:そうです。「スマート農業」という言葉が農水省から初めて出てきたのは、おそらく2013年ことですが、こちらはご存じの通り広く一般にまで認識されています。

では、スマート農業が何かといえば、個人的には精密農業と大きな変わりはないと考えています。ただ決定的に違うのは、それからICTや制御技術といった道具が進化したこと。これで一気に、空間軸と時間軸とを農業に使えるようになりました。

ケタ違いに多くのデータをリアルタイムに利用できるようになった。それによって、望むならば生産者は、ローカルでありながら、グローバルにも密接に関わりながら、農業をできるようになったのです。

ご存じの通り現在は、自分の農地から莫大な情報を取得できるようになりました。それだけでなく、気象データも使えるし、誰かと連携をしていれば、そのデータを他者に使わせてあげることもできます。これにより、今まではできなかったような精度で収量予測や病害予測ができるようになりましたし、市場価格のデータを参考に出荷計画を立てることも可能になってきています。

また、制御技術が進歩したこと、それから「みちびき」が象徴的ですが、高精度で安定した衛星測位も可能になってきました。これにより、より精密な作業が可能になってきています。これらの道具が進化したことで一気に精密農業の可能性が広がり、それに合わせて「スマート農業」というキャッチーな言葉が出てきた……私はスマート農業を、そのように理解しています。


農水省の研究会と「SIP」でスマート農業が加速

──では、実際に日本では、スマート農業はどのように発展してきたのでしょうか?

野口:2013年11月に農水省が「スマート農業の実現に向けた研究会」を立ち上げたのが、公的な動きとしては第一歩になりますね。ロボット技術やICTを活用して超省力・高品質生産を実現する新たな農業(スマート農業)を実現するため、スマート農業の将来像と実現に向けたロードマップやこれら技術の農業現場への速やかな導入に必要な方策を検討する、というのが、この研究会の目的でした。

2017年3月に開催された第6回の研究会で、農業機械の自動走行に関する安全性確保ガイドラインを策定したのが、大きな成果です。自動走行できる農業ロボットがモノとして完成させるにあたって、それを安全に利用するためにメーカーはどのような安全性確保対策をすれば良いのか、そのガイドラインが必要となりますからね。

この「スマート農業の実現に向けた研究会」と並行して、内閣府直轄の「戦略的イノベーション創造プログラム」(SIP)の中で「次世代農林水産業創造技術」という課題として、農業分野が取り上げられました。

SIPというのは、府省の枠や旧来分野の枠を越えて科学技術イノベーションを実現するために創設されたプログラムのこと。スマート農業を推進するには分野を越えた技術の導入が必要不可欠ですから、国としては府省の枠を越えて、民や学としても例えばITやロボットといった農業以外の分野と連携して推進しよう、という動きでした。

2014年度~2019年度に実施された第1期では、農業のスマート化と農林水産物の高付加価値化の技術革新を実現し、農家に貢献することを目指しました。5年間という長いプロジェクトでしたが、研究開発テーマを社会実装可能性で絞り込みを行い、3年目に計画全体を見直しました。その代表的な成果として、自動運転トラクターの市販化や農業データ連携基盤「WAGURI」の社会実装が挙げられます。また、ゲノム編集を活用した育種技術として、高GABAトマトを作出して商業化の可能性に先鞭をつけたことも、成果の一つですね。

ロボット農機に関して言えば、ロードマップで設定した「レベル2:使用者の監視下での無人状態での自律走行」までは実現しています。そして2020年に向けては、「レベル3:無人状態での完全自律走行」が研究開発段階にあります。

レベル3のロボット農機がどんなものかと言えば……
  •  ロボット農機は、無人状態で、常時すべての操作を自律的に行う。
  •  基本的にロボット農機が周囲を監視して、非常時の停止操作を実施(使用者はモニター等で遠隔監視)
となります。現在の市販品より、さらに進化していることがわかるでしょう。


SIPの第1期は2019年3月末に終了しましたので、現在はSIP第2期「スマートバイオ産業・農業基盤技術」の下に「ロボット農機の高度運用ワーキンググループ」を設置。行政、メーカー、研究機関がメンバーとなって、開発した技術を社会実装するために議論しています。

技術的にロボット農機を開発できても、法整備がなされていなければ、使用はおろか、販売することもできません。そこで圃場間移動の法整備において対象とする農業機械とは何か、あるいは農業機械の公道走行に向けた具体的方策、それに電波利用についても、関係省庁間で議論を進めているんですよ。その成果の一つとして先日、農水省より作業機付きトラクターの公道走行走行要件の緩和が発表されました。

また、無人運転でのロボットトラクターの実証実験のほか、既存のロボット農機とは全く異なる狙いを持ったものも、積極的に開発を進めているんですよ。

※ ※ ※

後編では、野口先生が関わっている実証実験と、新しいロボット農機について説明する。


「農業機械の自動走行に関する安全性確保ガイドライン」の改訂について|農林水産省
https://www.maff.go.jp/j/press/seisan/sizai/180327.html
スマート農業の実現に向けた研究会
https://www.maff.go.jp/j/kanbo/kihyo03/gityo/g_smart_nougyo/
戦略的イノベーション創造プログラム 第1期(終了)
https://www.jst.go.jp/sip/sip1_index.html

【コラム】スマート農業研究第一人者に聞く「スマート農業最前線」
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  1. 田牧一郎
    田牧一郎
    日本で15年間コメ作りに従事した後、アメリカに移り、精米事業、自分の名前をブランド化したコメを世界に販売。事業売却後、アメリカのコメ農家となる。同時に、種子会社・精米会社・流通業者に、生産・精米技術コンサルティングとして関わり、企業などの依頼で世界12カ国の良質米生産可能産地を訪問調査。現在は、「田牧ファームスジャパン」を設立し、直接播種やIoTを用いた稲作の実践や研究・開発を行っている。
  2. 福田浩一
    福田浩一
    東京農業大学農学部卒。博士(農業経済学)。大学卒業後、全国農業改良普及支援協会に在籍し、普及情報ネットワークの設計・運営、月刊誌「技術と普及」の編集などを担当(元情報部長)。2011年に株式会社日本農業サポート研究所を創業し、海外のICT利用の実証試験や農産物輸出などに関わった。主にスマート農業の実証試験やコンサルなどに携わっている。 HP:http://www.ijas.co.jp/
  3. 石坂晃
    石坂晃
    1970年生まれ。千葉大学園芸学部卒業後、九州某県の農業職公務員として野菜に関する普及指導活動や果樹に関する品種開発に従事する一方で、韓国語を独学で習得する(韓国語能力試験6級取得)。2023年に独立し、日本進出を志向する韓国企業・団体のコンサル等を行う一方、自身も韓国農業資材を輸入するビジネスを準備中。HP:https://sinkankokunogyo.blog/
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    川島礼二郎
    1973年神奈川県生まれ。筑波大学第二学群農林学類卒業。フリーラインスの編集ライターとして、テクノロジーをキーワードに、農業雑誌・自動車雑誌などで執筆・編集活動中。
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    堀口泰子
    栄養士、食アスリートシニアインストラクター、健康・食育シニアマスター。フィットネスクラブ専属栄養士を経て独立。アスリートの食事指導や栄養サポートの他、離乳食から介護予防まで食を通じて様々な食育活動を行う。料理家としても活動し、レシピ提案、商品開発も担う。食事は楽しく、気負わず継続できる食生活を伝えることを信条とする。スポーツの現場ではジュニアの育成、競技に向き合うための心と体の成長に注力している。HP:https://eiyoushiyakko.jimdofree.com/
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