【新連載・田牧一郎の「世界と日本のコメ事情」vol.1】アメリカで日本のコメ作りに挑戦した理由

日本のコメを取り巻く環境は、決して良いとは言えない状況です。2020年は新型コロナウイルスによる外食産業でのコメ消費減少なども重なり、余剰米が溢れ、2021年は作付け面積の調整が必要だと言われています。

そのような状況下で、国は農産物輸出の拡大を目指して舵を切っていますが、実績は芳しくありません。世界中で日本食が人気の昨今、食味も品質も高い日本のコメは“支持される”と信じられていますが、実際に海外の日本食レストランで採用されているのは、「カリフォルニア産中粒米」や「海外産の日本米」なのです。

そんな海外産コシヒカリの栽培に、30年前にカリフォルニアで挑みながら、オリジナルブランドを開発し定着・普及させたのが、今回からSMART AGRIで連載を開始する株式会社田牧ファームスジャパンの代表取締役、田牧一郎さんです。

第1回は、コメ農家の後継ぎがなぜアメリカに渡ることを決めたのか、当時の日本の農政や農業界の考え方も含めて語ります。

著者紹介
田牧一郎(たまきいちろう)。1952年12月13日生まれ。日本で15年間コメ作りに従事した後、アメリカに移り、精米事業、自分の名前をブランド化したコメ「田牧米」を世界に販売。事業売却後、アメリカのコメ農家となる。同時に、種子会社・精米会社・流通業者に、生産・精米技術コンサルティングとして関わり、企業などの依頼で世界11カ国の良質米生産可能産地を訪問調査。2018年に茨城県つくば市に株式会社田牧ファームスジャパンを設立し、以降は日本を拠点に活動。ドローンによる直接播種、IoTを用いた水管理といったスマート農業技術の実践や研究・開発も行っている。


コメ作り農家の長男として


日本のコメ政策は、コメの生産と消費、そして在庫量の増減などの要因で、その都度実態に即した対策がなされてきました。

戦後の食糧難解消のためには、新規開田の推奨と増産技術の普及による主食のコメ増産時代が続きました。

生産量が安定的に増加すると、市場の要求に応える「良質・良食味米」の生産へと目標が変化しました。

そして国民一人当たりの年間消費量の減少に伴い「余剰米」が発生すると、その在庫が増加したことへの対策として、コメの生産抑制に大きく舵を切り、1970年にコメの作付面積を削減するいわゆる「減反政策」が始まりました。

その直前の1968年3月、私は義務教育課程を修了しました。中学校での進路指導や周りからの勧めもあり、コメ農家の息子であった私は、当然のように福島県内の農業高校を受験。入学予定者によるオリエンテーションにも出席しました。

しかし、その場での校長先生からの話は、「自ら学びたくて入学する者以外の者は、この学校に来る必要はない」というものでした。

「自分は自ら学びたくてこの学校に入るのか?」。帰宅の道すがら考え、自ら学びたい強い意志は受験の時も入学準備の説明会の時もなかったことに気付いたのです。帰宅後、学校に入学辞退の連絡をしました。

そして、農業後継者の研修の場として自治体が実施していたプログラムに参加しながら、家業のコメ作りの手伝いを本格的に開始。同時に、通信制の高等学校に入学し、自分の時間で学び卒業しました。

アメリカの自宅とその周辺の様子。見渡す限り農地が広がっている

日本の伝統的な稲作を経験した幼少期


比較的規模の大きな農家の長男に生まれた私は、物心つく頃から後継ぎとして家業を継承することを教え込まれました。周囲からも地域の農業後継者と言われ、当然のこととして農作業を手伝い、それを一生の仕事とすることに大きな疑問を持たずにいました。幼い頃から、家業のコメ作りを手伝うことは家を継ぐ長男の義務であり、仕事を覚えるための訓練の場でもあったのです。

約60年前の東北地方の農村では当たり前だったコメ作りの仕事として、春は朝早くから冷たい水の中で保温折衷苗代での苗作りの準備に始まり、牛に「すき」を引かせて田を耕し、「まぐわ」を引かせて代掻きをして、田植えの準備などをしていました。

早朝から日が落ちるまで腰を曲げて田植えをしました。水中除草機「田車」を押し、除草剤を使い、それでも処理しきれなかった水田の草取りは、人手が頼りの仕事です。稲刈りもすべて手作業で、刈り取った稲はすぐにはざ掛けで自然乾燥。十分に乾燥した後に稲を納屋に取り込み、「夜なべ」で据え置き型脱穀機を使って脱穀しました。その後籾すり機で玄米にして、60㎏の袋に詰めて出荷となります。

当時は、可能な限り家族による作業を主とし、必要に応じて近隣から人手を雇いコメ作りをしていました。私も子どもでもできる作業を担当していましたが、人の手による作業が機械に置き換わった時期からは、次第にその機械を動かす役割を果たすように。農業機械の導入によって苗作りも変わり、移植作業も機械でできるようになりました。

自由に作り自由に売れる、アメリカのコメ生産への憧れ


ただ、20歳になる頃から広い世界を見たい欲求にかられ始めました。海外に行くことを考え、その手段を探す中で国際農友会(公益社団法人国際農業者交流協会)の派米農業実習生のプログラムを知りました。選考試験と面接、そして2度の国内合宿研修を経て、21歳になった年の2月から、アメリカの大規模コメ生産農場での1年間の研修機会を得たのです。

この時のアメリカでの実習体験が、以来40年余に渡って現地でコメ作りに関わる契機となり、その継続の基礎となっています。

アメリカでのコメ作りには、その規模の大きさと稲の栽培方法の違いに驚きました。幸い実習先は大規模なコメ生産農場であり、乾燥施設も精米施設も持ち、自らのブランド米を生産し全米に販売をしていた農場でした。これが自由にコメを作り、自由に販売できる制度の元でのコメ生産農場の、一つのビジネスモデルであることを学びました。

薬散ヘリコプターに農薬や肥料を積んでいる様子

帰国してからは、家業としてこれからもコメ作りを継続していくことを決めました。

しかし、日本でのコメ作りは、アメリカのコメ作りとはあまりにも異なりました。

減反政策の中でも、生産物のコメは政府との間接的な契約によって、自家消費用以外はすべて「供出」(「販売」の意。当時はこのような表現だった)しなければなりませんでした。

作業も、耕運機から小型とはいえ乗用トラクターになり、小型の乗用コンバインも開発され、作業者の重労働は軽減され改善されてきました。

そうした流れの中で、アメリカのコメ作りとの大きなギャップを気にしながら、日本式のコメ作りを15年間悶々と継続してきました。

「農業を担う若い世代として、将来のコメ作りに何を期待するのか?」
「日本のコメ作りがどう変化することが、生産者のため、社会のためになるのか?」

地域の研修会への参加や組織活動、そして自主的な勉強会なども開き、多くの識者や先駆者の話を聞きました。同世代の仲間たちと議論し学びながらも、海外のコメ作りへの関心も薄れることはありませんでした。実習させてもらったアメリカの農場には何度も訪問したし、オーストラリアのコメ作りや、世界一の生産性を誇るニュージーランドの酪農なども興味深く見てきました。

いずれも輸出産業として国の経済を支えており、生産技術の開発と現場への普及が、緻密に計算され実施されていました。その結果が世界一の生産性とも言われるゆえんであることも学びました。

海外進出の転機となったある青年の言葉


そんな折、全国から農業者や関連業界の方々、そして消費者が集まり、議論する機会が東京で設けられました。その反省会の席で、私に議論を挑んできたある青年がいたのです。

「コメの生産と流通・販売は自由にされるべき、海外のコメも一定の制限の中で輸入することもあってもよい。日本からの輸出も当然あるべき」との私の持論が気に入らないと言われました。たしか私と同年代の農業青年であったと記憶しています。

この青年の言いようとその場の空気が、私がアメリカでのコメ作りに挑戦するきっかけを与えてくれました。

当時は、日本のコメ政策についての議論も活発であり、コメ輸入についても賛否両論がありました。

私は、コメを自由に作り自由に売る、海外のコメも輸入し国産米も輸出するという、「当たり前の農産物の一つとしてコメがある」と主張していました。そのため、「主食の生産を守るためには、海外産米の輸入は一粒たりともあってはならない」との意見と明確に対立していました。

一方、国内の消費減退の結果発生した「過剰米」対策をどうすべきとか、その後の生産をどう維持・発展させるかに関しては、国として明確なビジョンが示されていたわけではありませんでした。「日本産のコメは輸入米とは競争できない」「海外と比較して生産規模(経営規模)の小さい日本のコメ関連産業は弱く、保護しなければ継続できない産業である」との主張も同時に展開されていました。

現状維持のために国家予算を使って農業とコメ作りを保護し、主食のコメは絶対守るという主張には、私は賛同しかねていました。自由に生産し自由に販売することで、市場がその価値を決め生産量も市場が決めることになります。アメリカの稲作がそうであり、オーストラリアのコメ生産も、輸出市場の動向で生産物の価格が決まり生産量も決まるという、自由市場の中で生き抜くための対策を講じていました。

ただし、当時はこの現実を認めない日本の生産者がほとんどであり、同様の意見を持つ人は、農業団体にも大多数の消費者にも、コメ流通に関わる業界人にも多くいたのです。

(つづく)

【連載】田牧一郎の「世界と日本のコメ事情」
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WRITER LIST

  1. 堀口泰子
    栄養士、食アスリートシニアインストラクター、健康・食育シニアマスター。フィットネスクラブ専属栄養士を経て独立。アスリートの食事指導や栄養サポートの他、離乳食から介護予防まで食を通じて様々な食育活動を行う。料理家としても活動し、レシピ提案、商品開発も担う。食事は楽しく、気負わず継続できる食生活を伝えることを信条とする。スポーツの現場ではジュニアの育成、競技に向き合うための心と体の成長に注力している。HP:https://eiyoushiyakko.jimdofree.com/
  2. 大槻万須美
    管理栄養士・フードスタイリスト。楽しく食べて健康に。食の大切さを伝えるため、料理教室、バレエダンサーやアスリートのパーソナル栄養サポート、レシピ・コラムの提供など幅広く活動。子どもの頃の毎年の米作り経験から、身近な食体験の重要性についても実感し、おとなと子どもの食育サポートにも力を注いでいる。
  3. 田牧一郎
    たまきいちろう。68歳。日本で15年間コメ作りに従事した後、アメリカに移り、精米事業、自分の名前をブランド化したコメを世界に販売。事業売却後、アメリカのコメ農家となる。同時に、種子会社・精米会社・流通業者に、生産・精米技術コンサルティングとして関わり、企業などの依頼で世界12カ国の良質米生産可能産地を訪問調査。現在は、「田牧ファームスジャパン」を設立し、直接播種やIoTを用いた稲作の実践や研究・開発を行っている。
  4. 田中克樹
    たなかかつき。32年間の農業出版社勤務を経て、2020年末、故郷の八ヶ岳南麓に帰郷。仲間と共に農業・福祉系NPOを立ち上げ、遊休農地・耕作放棄地を再生し、心身の癒しや健康づくりにつながる有機無農薬の体験型農園づくりに取り組む。NPOでは田んぼ除草にホバークラフトを活用したスマート技術を開発中。農と風土(フード)を愛する人たち向けのブックカフェ・居酒屋を開くのが夢。
  5. 山田正美
    大阪工業大学大学院修了。福井県職員として、農業試験場研究員、専門技術員、農業技術経営課長、農林水産部技幹を経て退職。現在、日本生産者GAP協会常務理事、日本農業サポート研究所主席コンサルタント。
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