研究者たちはなぜいま、「土壌保全基本法」を起草したのか ――土壌学、環境学からの警鐘――
土は農業生産において欠くことのできない要素だ。そうであるにもかかわらず、必ずしも重視されてこなかった。
「土壌の公共性、共有財としての認識、現世利用が将来世代に影響することの認識が欠如しているのではないか」
地力の低下や優良農地の転用が進む現状を見ると、この少々厳しめの研究者たちの指摘は、的を射ていると感じる。研究者らによる「土壌保全基本法」という新法の起草を紹介したい。
世界の人口増加に伴い、2050年に予測されている人口を養うには、今よりも60%の食料増産が求められる。土地の生産性が飛躍的に高まった一方、土壌の劣化が足を引っ張っている。それは土地の生産性の向上だけでは補いきれないレベルに達していると、多くの報告が指摘している。
このため、国連食糧農業機関(FAO)をはじめとする国連組織は、世界的な土壌資源の保全を目指してきた。国連は2015年を「国際土壌年」に指定。1982年に土壌の重要性と保全のための長期的な計画の必要性を勧告した「世界土壌憲章」を、FAOは同年に改訂した。一連の動きは強い危機感の表れといえる。
土壌の状態に国も危機感を持っていることは、肥料取締法の改正についての記事で触れた。土づくりに欠かせない堆肥の投入量が減り、有機物を施用しない圃場が増え、化学肥料に偏重したことでリン酸やカリが過剰になる傾向がある。
このグラフの年を見て、ちょっと古すぎるのではと感じる読者もいるだろう。その実、土壌に関する全国を網羅した最新のデータはない。
戦後ずっと続いてきた国の土壌保全調査事業は、2005年度で終了した。だから、肥料取締法の改正の議論も、特定の県の土壌データか10年以上前の国の調査データに基づいて、今の土壌を議論するという状態だった。国内で土壌が重視されていないのは、調査事業の打ち切りからも見て取れる。
国内では農地は私有地だからどう使おうと勝手という考えが強い。そのため、転用は承認機関である地元の農業委員会にコネがあれば、基本的に認められる。営農の仕方に口を挟まれることも少ない。
「土壌がサステナビリティにおいて非常に重要なものであるにもかかわらず、空気や水に比べ、公共財としての重要性が認識されていない。その価値を認識してもらうための一つの方法として、法律を制定してはどうか」
国立環境研究所の村田智吉さん
土壌の保全について包括的に定めた法律「土壌保全基本法」の制定を目指す国立環境研所研究員の村田智吉さんは、動機をこう説明する。
土壌の保全に関わる法律としては、土壌汚染対策法、環境基本法などがあるが、いずれも問題が生じた場合への対処、あるいは問題の防止が主眼だ。土の包括的な保全を理念に掲げる法律が必要だと、2013年度に複数の研究者らと共にトヨタ財団の研究助成プログラムとして検討を始め、草案をまとめた。
「一つの土地を、あるときは農業生産に使えて、あるときには森林にもできて、あるときには都市にもできる。たとえ都市にしても、将来農地にも使えるように土は保全しないといけない。そういうふうに、土地を使い変えられるように保全する」
村田さんは理念をこう説明する。草案は、土壌の重要性を説く前文と、総則、土壌保全基本計画、基本的施策、土壌保全政策本部、付則から成る。
農地の管理は三つの省にまたがる。環境省が公害対策を担い、農林水産省が農林地の保全を担い、国土交通省が土地の所有管理をするといった具合だ。複数の省にまたがるテーマもあるけれども、基本的には省と省の間に断絶がある。
たとえば、農地に「土壌改良」の名目で建設現場から出た残土を入れるということがよくある。もちろん、改良の効果はない。
筆者の聞いたところでは、これを周辺住民が見とがめて訴え出るとこうなる。
手続き上問題がないから「問題ない」というのだ。国と地方行政、農水省と環境省の間の断絶がそこにある。あるセクションで承認したものに、別のセクションが「ノー」と言うことは基本的にない。セクショナリズムの緩和には法制度の変更が必要だと、研究グループは強調する。
「たとえ行政官が土壌が大事だと分かっていても、何かしてくれるかというと、してくれません。所管の法律がないので、やりようがないところがある。法律があれば法に則って、保全のために行動を起こすことになります」
村田さんはこう期待する。
「研究者は調査や研究をして終わるのが、今までのやり方だった。これからは、研究者も将来を見越し、次世代に土壌がきちんと保全されるようにルールを作るとか、メッセージを送るといったことをする必要がある」(村田さん)
基本法の制定に熱心だった研究者に、土壌学者の大倉利明さん(2019年に逝去、農研機構に所属)がいる。現場を飛び回るタイプの研究者で、全国で土壌を調べ、農家に熱心にアドバイスをしていた。生前、「土壌は地球からもらった預かりもの」「土壌保全基本法ができるまでは死んでも死にきれない」と話していたという。
土壌保全基本法の起草に関わった研究者らはSoil Survey Inventory Forum(SSIF)という組織を作って活動している。SSIFのワークショップ「賢明な利用のルーツとしてのプラグマティズム――土壌の産業哲学と〈農〉の哲学」で海外から農業倫理の専門家を招いた際の集合写真。前列左端が大倉利明さん(2015年)
大倉さんが記した次の言葉を、私たちは重く受けとめるべきだろう。
良い土を作るには時間がかかる。一方で、良い土を流失させることはいとも簡単にできてしまう。スマート農業において、土壌を正面からとらえた技術が少ないのは、その多様性と難しさ、面倒さの傍証ではないだろうか。
土壌の奥深さ、大切さを訴え続けた大倉さんの遺志が継がれることを切に願う。
「土壌の公共性、共有財としての認識、現世利用が将来世代に影響することの認識が欠如しているのではないか」
地力の低下や優良農地の転用が進む現状を見ると、この少々厳しめの研究者たちの指摘は、的を射ていると感じる。研究者らによる「土壌保全基本法」という新法の起草を紹介したい。
世界の3分の1の土壌が劣化に直面
世界の土壌の3分の1が何らかの劣化に直面していることをご存じだろうか。世界の人口増加に伴い、2050年に予測されている人口を養うには、今よりも60%の食料増産が求められる。土地の生産性が飛躍的に高まった一方、土壌の劣化が足を引っ張っている。それは土地の生産性の向上だけでは補いきれないレベルに達していると、多くの報告が指摘している。
このため、国連食糧農業機関(FAO)をはじめとする国連組織は、世界的な土壌資源の保全を目指してきた。国連は2015年を「国際土壌年」に指定。1982年に土壌の重要性と保全のための長期的な計画の必要性を勧告した「世界土壌憲章」を、FAOは同年に改訂した。一連の動きは強い危機感の表れといえる。
土壌の状態に国も危機感を持っていることは、肥料取締法の改正についての記事で触れた。土づくりに欠かせない堆肥の投入量が減り、有機物を施用しない圃場が増え、化学肥料に偏重したことでリン酸やカリが過剰になる傾向がある。
このグラフの年を見て、ちょっと古すぎるのではと感じる読者もいるだろう。その実、土壌に関する全国を網羅した最新のデータはない。
戦後ずっと続いてきた国の土壌保全調査事業は、2005年度で終了した。だから、肥料取締法の改正の議論も、特定の県の土壌データか10年以上前の国の調査データに基づいて、今の土壌を議論するという状態だった。国内で土壌が重視されていないのは、調査事業の打ち切りからも見て取れる。
土壌は公共財
土壌の劣化に話を戻すと、圃場整備や大型機械の導入が作土(作物の根が張る土壌の表層部分)の層を薄くし、硬い耕盤(大型機械の踏圧でできる硬くて密になった層)を増やしている。営農による影響以外では、農地転用によって優良な農地が宅地や商業施設、道路などに姿を変え、消えていく。国内では農地は私有地だからどう使おうと勝手という考えが強い。そのため、転用は承認機関である地元の農業委員会にコネがあれば、基本的に認められる。営農の仕方に口を挟まれることも少ない。
「土壌がサステナビリティにおいて非常に重要なものであるにもかかわらず、空気や水に比べ、公共財としての重要性が認識されていない。その価値を認識してもらうための一つの方法として、法律を制定してはどうか」
国立環境研究所の村田智吉さん
土壌の保全について包括的に定めた法律「土壌保全基本法」の制定を目指す国立環境研所研究員の村田智吉さんは、動機をこう説明する。
土壌の保全に関わる法律としては、土壌汚染対策法、環境基本法などがあるが、いずれも問題が生じた場合への対処、あるいは問題の防止が主眼だ。土の包括的な保全を理念に掲げる法律が必要だと、2013年度に複数の研究者らと共にトヨタ財団の研究助成プログラムとして検討を始め、草案をまとめた。
「一つの土地を、あるときは農業生産に使えて、あるときには森林にもできて、あるときには都市にもできる。たとえ都市にしても、将来農地にも使えるように土は保全しないといけない。そういうふうに、土地を使い変えられるように保全する」
村田さんは理念をこう説明する。草案は、土壌の重要性を説く前文と、総則、土壌保全基本計画、基本的施策、土壌保全政策本部、付則から成る。
セクショナリズムの壁
基本法を起草した理由の一つに、各省のセクショナリズムがある。農地の管理は三つの省にまたがる。環境省が公害対策を担い、農林水産省が農林地の保全を担い、国土交通省が土地の所有管理をするといった具合だ。複数の省にまたがるテーマもあるけれども、基本的には省と省の間に断絶がある。
たとえば、農地に「土壌改良」の名目で建設現場から出た残土を入れるということがよくある。もちろん、改良の効果はない。
筆者の聞いたところでは、これを周辺住民が見とがめて訴え出るとこうなる。
環境省に電話すると、都道府県などの環境部局の窓口を紹介される。
↓
そこに通報すると、農地の地番を聞かれ、調査すると言われる。
↓
後日、「農業委員会で土壌改良目的だとして承認しています」という答えが返ってくる。
手続き上問題がないから「問題ない」というのだ。国と地方行政、農水省と環境省の間の断絶がそこにある。あるセクションで承認したものに、別のセクションが「ノー」と言うことは基本的にない。セクショナリズムの緩和には法制度の変更が必要だと、研究グループは強調する。
「たとえ行政官が土壌が大事だと分かっていても、何かしてくれるかというと、してくれません。所管の法律がないので、やりようがないところがある。法律があれば法に則って、保全のために行動を起こすことになります」
村田さんはこう期待する。
土は、地球からの預かりもの
これまで土壌や環境の研究者は調査・研究をすることはあっても、法律の草案を作るところまで踏み込むことはなかった。「研究者は調査や研究をして終わるのが、今までのやり方だった。これからは、研究者も将来を見越し、次世代に土壌がきちんと保全されるようにルールを作るとか、メッセージを送るといったことをする必要がある」(村田さん)
基本法の制定に熱心だった研究者に、土壌学者の大倉利明さん(2019年に逝去、農研機構に所属)がいる。現場を飛び回るタイプの研究者で、全国で土壌を調べ、農家に熱心にアドバイスをしていた。生前、「土壌は地球からもらった預かりもの」「土壌保全基本法ができるまでは死んでも死にきれない」と話していたという。
土壌保全基本法の起草に関わった研究者らはSoil Survey Inventory Forum(SSIF)という組織を作って活動している。SSIFのワークショップ「賢明な利用のルーツとしてのプラグマティズム――土壌の産業哲学と〈農〉の哲学」で海外から農業倫理の専門家を招いた際の集合写真。前列左端が大倉利明さん(2015年)
大倉さんが記した次の言葉を、私たちは重く受けとめるべきだろう。
「土壌は多面的な資源であり、まだその特性は十分に明らかになっていません。
土壌の価値は、決して単純な地価などで表されるものではありません」
(引用元:「明治以降一五〇年間の日本の土壌調査 : 土壌調査を身近に感じてもらうために」『中央評論』No.306、32ページ、2018年)
土壌の価値は、決して単純な地価などで表されるものではありません」
(引用元:「明治以降一五〇年間の日本の土壌調査 : 土壌調査を身近に感じてもらうために」『中央評論』No.306、32ページ、2018年)
良い土を作るには時間がかかる。一方で、良い土を流失させることはいとも簡単にできてしまう。スマート農業において、土壌を正面からとらえた技術が少ないのは、その多様性と難しさ、面倒さの傍証ではないだろうか。
土壌の奥深さ、大切さを訴え続けた大倉さんの遺志が継がれることを切に願う。
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