農業における「フェノミクス」の意義とは? ゲノム編集研究の発展とフェノミクス(前編)
「フェノミクス」という言葉を頻繁に聞くようになった。
いったいどういう意味で、これからの農業にとってどういう価値があるのか。それを知れば、育種の高速化だけではなく、生産性の向上にとっても、フェノミクスというものがこれから重要な鍵であることが理解できるだろう。
この分野の先駆者である東京大学大学院 農学生命科学研究科の二宮正士特任教授(名誉教授)にインタビューした。二宮特任教授は同大国際フィールドフェノミクス研究拠点のリーダーでもある。
二宮:それを理解してもらうには、「ジェノタイプ」(ゲノタイプ)と「フェノタイプ」という言葉について説明しなければなりません。ともに育種における植物の性能を評価する対象であり、日本語ではそれぞれ「遺伝子型」と「表現型」と呼ばれています。
遺伝子型とは、個々の生物が持つ遺伝子の構成であり、表現型とはその遺伝子型が形質として現れるものです。表現型には、目に見える草形や草丈はもちろん、果実の糖度や酸度、光合成など目に見えないものも含みます。
――植物のあらゆるパフォーマンスは表現型、つまりフェノタイプなんですね。
二宮:ええ、そうです。フェノタイプを計測することを「フェノタイピング」と呼び、そして、ジェノタイプを解析することを「ジェノタイピング」(ゲノタイピング)と呼びます。
今回ご質問の「フェノミクス」とは、そうしたフェノタイピングに関する研究を指します。一方、ジェノタイピングに関する研究は「ジェノミクス」(ゲノミクス)と呼びます。
――「フェノミクス」という言葉はいつ頃から出てきたのでしょうか。
二宮:はっきりとはわからないのですが、ざっとこの10年から20年の間のことかと思います。少なくとも私が学生だった40年前にはなかった言葉ですね。
当時のフェノタイピングといえば、草丈や病徴などをメジャーや目視で計測するのが当たり前で、基本的に新たな技術の開発はありませんでした。だから研究の対象になりえなかったんです。
二宮:そうですね。それがここ7、8年で、フェノミクスに関する論文は10倍ほどに増えています。
――なぜでしょう。
二宮:ジェノミクス、つまり遺伝子解析が急速に進展したからです。
かつてジェノタイプを解析するのには膨大な時間と費用がかかっていました。ただ、次世代シーケンサーの登場によって遺伝子の塩基配列を解析する技術は急速に発達し、いまでは価格は10万円、日数は1日でできるようになっています。
対してフェノミクスはどうかというと、いまもって手や目を使っているところがある。ただ、フェノタイプの情報がないと、遺伝子がどう機能しているかがわからないので、それだと困るわけです。ジェノタイプの情報だけ持っていても宝の持ち腐れ。育種においてジェノタイピングとフェノタイピングは対で考えないといけないんですね。
だったらフェノタイピングを高速化する必要があるというので、その研究であるフェノミクスが盛り上がってきました。もちろんセンサーやドローンが登場するなど、フェノタイピングに使える技術が発達してきたことも無視はできません。
二宮:確かに目視や人手をかける作業は多いですね。育種では1000種類から選抜していくこともまれではありません。それぞれ草丈を測ったり耐病性を見たりするので、手間も費用も膨大にかかる。
ただ、技術はすごい進展をしていて、フェノタイピングを高速化することが可能になりつつあります。
たとえば、AIのひとつである深層学習を使えば、人間が目で見て判断していることはほとんどできてしまう。ドローンで画像を撮れば、どこにどれだけの花が咲いているといった情報は比較的簡単に得られるわけです。フェノミクスは急速に発展している最中です。
ソルガム穂のドローン画像からの高精度計数。さまざまな形状や色の穂も、精度高くカウントできることを示している (引用元:https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpls.2018.01544/full)
二宮:ええ、確かに育種を早めるにはフェノミクスがボトルネックでした。それがさまざまなデータが時系列で取れるようになり、いままで点だったデータが線になっています。つまりデータの取得が高速化するだけではなく、新たな情報が得られるようになってきました。
データが線になると、新たな発見につながる。たとえば葉っぱ一枚ごとの角度を時系列で計測し、光合成を最大化できる動きを追っていく。そうしたデータが膨大になれば、育種はデザインする時代に入っていきます。数理モデルをつくり、交配する品種のデータを入れ込む。そうすれば栽培しなくても、シミュレーションでどういうパフォーマンスをするかは予測できるようになるでしょう。
わかりやすいのは果樹です。たとえば甘い品種が欲しい時、従来の育種法では苗木を植えてから実がなるまで数年かかり、そこで初めて選抜を開始するわけです。それが数理モデルができていれば、交配して種子を得た段階でどういうパフォーマンスを持つのか予想できてしまう。
これは育種の高速化にとってものすごく大きいことです。予測の精度はさほど良くなくても構いません。駄目なものだけでもわかれば、それだけで選抜する数は減らせるわけですから。
そしてこれは遠い未来の話ではなく、すでに米国では乳牛の品種改良で実用化されています。育種の話ばかりしましたが、この技術は農家の圃場で生育をモニタリングするのにも十分に使えます。
――シミュレーションに当たっての課題は何でしょう。
二宮:環境のデータをどう入れ込むか、という点です。単純に遺伝子型で表現型が決まるわけではなく、植物がどう育つかは環境が左右するのは言うまでもありません。ある品種についてまったく作ったことのない場所でどう反応するかを予測するには、環境も含めた数理モデルができなければいけない。そこは今後の課題です。
二宮 正士 | 東京大学
東京大学国際フィールドフェノミクス研究拠点 | U.Tokyo Field Phenomics Research Laboratory
いったいどういう意味で、これからの農業にとってどういう価値があるのか。それを知れば、育種の高速化だけではなく、生産性の向上にとっても、フェノミクスというものがこれから重要な鍵であることが理解できるだろう。
この分野の先駆者である東京大学大学院 農学生命科学研究科の二宮正士特任教授(名誉教授)にインタビューした。二宮特任教授は同大国際フィールドフェノミクス研究拠点のリーダーでもある。
植物に現れる傾向や成長状態などを評価する「フェノミクス」
――そもそも「フェノミクス」とはどういう意味なのでしょう。それからこれからの農業にとってどういう価値を持つのでしょう。二宮:それを理解してもらうには、「ジェノタイプ」(ゲノタイプ)と「フェノタイプ」という言葉について説明しなければなりません。ともに育種における植物の性能を評価する対象であり、日本語ではそれぞれ「遺伝子型」と「表現型」と呼ばれています。
遺伝子型とは、個々の生物が持つ遺伝子の構成であり、表現型とはその遺伝子型が形質として現れるものです。表現型には、目に見える草形や草丈はもちろん、果実の糖度や酸度、光合成など目に見えないものも含みます。
――植物のあらゆるパフォーマンスは表現型、つまりフェノタイプなんですね。
二宮:ええ、そうです。フェノタイプを計測することを「フェノタイピング」と呼び、そして、ジェノタイプを解析することを「ジェノタイピング」(ゲノタイピング)と呼びます。
今回ご質問の「フェノミクス」とは、そうしたフェノタイピングに関する研究を指します。一方、ジェノタイピングに関する研究は「ジェノミクス」(ゲノミクス)と呼びます。
――「フェノミクス」という言葉はいつ頃から出てきたのでしょうか。
二宮:はっきりとはわからないのですが、ざっとこの10年から20年の間のことかと思います。少なくとも私が学生だった40年前にはなかった言葉ですね。
当時のフェノタイピングといえば、草丈や病徴などをメジャーや目視で計測するのが当たり前で、基本的に新たな技術の開発はありませんでした。だから研究の対象になりえなかったんです。
ゲノム編集研究の発展により「フェノミクス」が再注目
――植物フェノタイピングにおいては、そのような古典的な手法がずっと続いてきたわけですか。二宮:そうですね。それがここ7、8年で、フェノミクスに関する論文は10倍ほどに増えています。
――なぜでしょう。
二宮:ジェノミクス、つまり遺伝子解析が急速に進展したからです。
かつてジェノタイプを解析するのには膨大な時間と費用がかかっていました。ただ、次世代シーケンサーの登場によって遺伝子の塩基配列を解析する技術は急速に発達し、いまでは価格は10万円、日数は1日でできるようになっています。
対してフェノミクスはどうかというと、いまもって手や目を使っているところがある。ただ、フェノタイプの情報がないと、遺伝子がどう機能しているかがわからないので、それだと困るわけです。ジェノタイプの情報だけ持っていても宝の持ち腐れ。育種においてジェノタイピングとフェノタイピングは対で考えないといけないんですね。
だったらフェノタイピングを高速化する必要があるというので、その研究であるフェノミクスが盛り上がってきました。もちろんセンサーやドローンが登場するなど、フェノタイピングに使える技術が発達してきたことも無視はできません。
ドローンやAI画像認識により「フェノミクス」が急速に発展
――いまでもフェノタイプを計測するのは人為に寄るところが大きいですよね。二宮:確かに目視や人手をかける作業は多いですね。育種では1000種類から選抜していくこともまれではありません。それぞれ草丈を測ったり耐病性を見たりするので、手間も費用も膨大にかかる。
ただ、技術はすごい進展をしていて、フェノタイピングを高速化することが可能になりつつあります。
たとえば、AIのひとつである深層学習を使えば、人間が目で見て判断していることはほとんどできてしまう。ドローンで画像を撮れば、どこにどれだけの花が咲いているといった情報は比較的簡単に得られるわけです。フェノミクスは急速に発展している最中です。
ソルガム穂のドローン画像からの高精度計数。さまざまな形状や色の穂も、精度高くカウントできることを示している (引用元:https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpls.2018.01544/full)
シミュレーションにより育種の予測・高速化を実現
――フェノミクスの発達により育種の高速化が期待できるのでしょうか。二宮:ええ、確かに育種を早めるにはフェノミクスがボトルネックでした。それがさまざまなデータが時系列で取れるようになり、いままで点だったデータが線になっています。つまりデータの取得が高速化するだけではなく、新たな情報が得られるようになってきました。
データが線になると、新たな発見につながる。たとえば葉っぱ一枚ごとの角度を時系列で計測し、光合成を最大化できる動きを追っていく。そうしたデータが膨大になれば、育種はデザインする時代に入っていきます。数理モデルをつくり、交配する品種のデータを入れ込む。そうすれば栽培しなくても、シミュレーションでどういうパフォーマンスをするかは予測できるようになるでしょう。
わかりやすいのは果樹です。たとえば甘い品種が欲しい時、従来の育種法では苗木を植えてから実がなるまで数年かかり、そこで初めて選抜を開始するわけです。それが数理モデルができていれば、交配して種子を得た段階でどういうパフォーマンスを持つのか予想できてしまう。
これは育種の高速化にとってものすごく大きいことです。予測の精度はさほど良くなくても構いません。駄目なものだけでもわかれば、それだけで選抜する数は減らせるわけですから。
そしてこれは遠い未来の話ではなく、すでに米国では乳牛の品種改良で実用化されています。育種の話ばかりしましたが、この技術は農家の圃場で生育をモニタリングするのにも十分に使えます。
――シミュレーションに当たっての課題は何でしょう。
二宮:環境のデータをどう入れ込むか、という点です。単純に遺伝子型で表現型が決まるわけではなく、植物がどう育つかは環境が左右するのは言うまでもありません。ある品種についてまったく作ったことのない場所でどう反応するかを予測するには、環境も含めた数理モデルができなければいけない。そこは今後の課題です。
二宮 正士 | 東京大学
東京大学国際フィールドフェノミクス研究拠点 | U.Tokyo Field Phenomics Research Laboratory
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